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人間にとって重要な内奥性と「蕩尽」の経済学——バタイユ『呪われた部分——全般経済学試論・蕩尽』を読む
富を蕩尽するように我々に求めている動きは、今や二様に変質させられて、呪うという感情に結びつけられている。一方では、富の蕩尽は戦争という醜悪な形態をまとわされて、反感の対象になっている。他方では、贅沢な浪費の伝統的な形態が不正義とみなされて、贅沢な浪費への反感になっている。富の過剰がこれまでにないほど膨大になっている今日、この過剰は、これまで何らかの仕方でいつも持たされてきた呪われた部分という意味を我々の眼前でこのうえなく帯びているのである。
ジョルジュ・バタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897 - 1962)はフランスの思想家。大戦前から戦後にかけて、文学・思想・芸術・宗教学・政治等広範な領域で批評活動を行い、現代に至るまで大きな影響を与えつづけている。思想書:『エロティシズム』『無神学大全』『至高性』他。小説:『青空』『眼球譚』『マダム・エドワルダ』他。
本書『呪われた部分——全般経済学試論・蕩尽』は、生産よりも富の「消費」(つまり「蕩尽」)のほうを、重要な対象とする経済学としてバタイユが提唱した「全般経済学」に関する書籍である。経済合理性の範疇に収まらない蕩尽・祝祭・宗教・エロス・芸術は、人間の喜びの本質が有用性の原理に拠って立つ生産・蓄積過程にあるのではなく、消費・蕩尽にあることを示している。本書は人間が不可避的に内包せざるを得なかった「過剰」を考察の対象にして人間存在の根源に迫り、生を真に充実させるために、蕩尽・神聖・恍惚に代表されるこの「呪われた部分」の再考を鋭く促している。バタイユいわく、経済学に「コペルニクス的転回」をもたらす試みだった。
「全般経済学」の特徴は3つある。それは、視点の根本的変換、蕩尽の強調、そして意識の覚醒である。
最初の点は、「限定的な経済の展望から全般的な経済の展望へ移る」ということである。視点の転換、経済学のパラダイム・チェンジと言ってもいいだろう。従来の経済学は一つの国家や特定の政治体制など、限定的で個別的な視点に立っていた。対して「全般経済学」は、太陽エネルギーに発する地球上全体のエネルギーの恒常的な余剰、そしてその消失へという大きなエネルギーの流れを視野に収め、過剰、浪費、喪失といった一見ネガティブな事態を重視して人間の活動全般を捉え直そうとした。このエネルギーの活動とは、陽光の輝きに捉えられ影響を受けている生物全般の活動のことである。生物全般にとって、地表のエネルギーはつねに過剰な状態にあり、問題はいつも「奢侈」(原語 luxe、「贅沢」とも)に関連した言葉で提起される。この場合、選択は富を蕩尽するやり方に関わっている。
2つ目の点は、蕩尽の強調である。富の蕩尽という徹底した非生産的消費を人間の経済活動の前面に打ち出していることである。従来の経済学が、生産による利潤を第一に重視しながら、生産・蓄積・生産的消費という合理的な経済の循環(サイクル)のなかに留まって考察を進めてきたのに対して、「全般経済学」は生産とその利潤を膨大な損失すなわち蕩尽へ差し向ける動きに注目している。合理的な経済のサイクルに留まっていても、人は知らず蕩尽への欲望に襲われ、自分自身のこのサイクルを激しく揺り動かし、ときには破綻させもする。
3つ目の点は、意識の覚醒である。バタイユは人が知らずに蕩尽の欲望に襲われるという事態に注目し、そこに人間の生の重要な面を見出した。そして近代人の意識の目を、この富の蕩尽へ、その「やり方」へ、見開かせようとした。意識の覚醒とはとりわけこの蕩尽とその「やり方」を対象にしている。
「蕩尽」とは何であろうか。人間は、生き延びていくために、なんらかの生産活動に従事していかねばならない。生産的消費とは、生産活動をさせ、これに貢献している消費のことである。しかしながら、人は生産活動をしていなくても、消費だけをおこなう無為な非生産的な生き方で過ごすこともできる。例えば、人を殺害する行為は、生産中心のサイクルを根底から滅ぼす蕩尽にほかならない。人命という富を無益に滅ぼす行為は、非生産的消費のなかの最も激しい形態なのだ。戦争、そして現代の無差別テロも、この形態の最悪のあり方である。バタイユは、戦争が「富を蕩尽するやり方」の一つであることをまず近代人に認識させる。余剰は世界規模で必然であり、蕩尽は不可避であるというのに、世界戦争という蕩尽の仕方しか選択できずにいる西欧文明の到らなさを意識させる。蕩尽を一方的に嫌い呪ってきたおかげで、戦争という最悪の非生産を自らに招いてしまった。そして今もまた新たに招きつつある西欧近代人の無意識の愚を正そうとするのである。
歴史的に見れば、典型的な蕩尽の例を西欧の内外にみることができる。バタイユは、アステカ文明の太陽崇拝や、マルセル・モースが伝える北米インディアンの競合的贈与(ポトラッチ)の習慣、さらにはチベットの宗教的文化と13世ダライ=ラマの陥った宗教人と為政者の根源的矛盾などの事例で、「蕩尽」が人間の活動にとって本質的であることを示そうとする。他方で、7世紀の初期イスラムの禁欲的な軍事企画社会や16世紀に誕生したプロテスタンティズムは、敬虔な信仰心に則って、余剰の蕩尽を徹底して拒み、信徒を軍事や労働に駆り立てた。プロテスタンティズムは西欧近代の資本主義社会を生む精神的母体になったのだが、しかし19-20世紀の近代資本主義社会は、労働を基軸にすえながら、そして「有用性」つまり「役に立つ」という発想に縛られながら、曖昧で卑俗で利己的な非生産的消費に終始するようになった。
その近代資本主義社会の行き着いた末に、人間にとって大切な「内奥性」すなわち生の広がりと深さが人々のあいだで共有されず、各人が利己的で無機的な単体に、「物」に還元されてしまったとバタイユは批判する。近代社会のなかで死滅した蕩尽は、わずかに中世の遺物に感じられるだけだとバタイユは言う。ベルギーのブリュージュのように近代化から取り残された中世の死都にそびえるゴシックの大聖堂は巨大な蕩尽の痕跡なのである。蕩尽によって生まれたものは、「物」でありながら、蕩尽の気配を宿して、あるいは体現して、「物」以上の光輝を発することがある。それをバタイユは「栄光」といい「至高性」と名づけている。人間一人一人もエロティシズムという生の蕩尽によって生まれた存在であり、生きている限り何歳になっても生を無益に、無益だからこそ魅力的に、輝かせることができるのである。