クオリアと自己は同じコインの表裏である——ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』を読む
本書『脳のなかの幽霊(Phantoms in the Brain: Probing the Mysteries of the Human Mind)』は1998年の神経科学者のV・S・ラマチャンドランの一般向け著書である。ヴィラヤヌル・スブラマニアン・ラマチャンドラン (Vilayanur Subramanian Ramachandran, 1951 – )はインド出身のアメリカの神経科医・心理学者・神経科学者。 カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学研究所(Center for Brain and Cognition)の所長を務める。 種々の神経疾患を取り扱った本書『脳のなかの幽霊』が有名である。
ラマチャンドランは脳の働きについていろいろな仮説をたて、それを立証するための実験をしているのだが、それはこうした症例が、「正常な心と脳の働きの原理を説明する事例であり、身体イメージや言語、笑い、夢などの解明に役立ち、自己の本質にかかわる問題に取り組む手がかりとなる」と考えているからである。本書では今、脳科学でホットなテーマとなっている「脳のハードプロブレム」、つまり意識をめぐる問題が扱われている。なかでも「クオリア」と「自己」の問題が最終章では扱われる。脳のニューロンの活動からどのようにして「赤い」とか「冷たい」といった主観的世界の感覚が生まれるのかというのがクオリア問題である。そこから意識や自己の感覚はどのようにして生まれるのか。これは21世紀最大の脳科学の難問であり、自己と意識という哲学が何世紀にもわたり格闘してきた問題でもある。
「クオリア」とは、「痛み」、「赤」、「トリュフ添えのニョッキ」といった主観的性質を感じる生(なま)の感覚のことである。そして、ラマチャンドランはこの「クオリア」が意識(あるいは自己の感覚)と密接に結びついているという。ラマチャンドランは、脳科学的見地から、意識がもつ生き生きとした主観的特性を体現する脳の回路が、おもに側頭葉の部位(扁桃体、中隔、視床下部、島など)と、前頭葉の単一の投射区域(帯状回)に存在すると主張する。
ラマチャンドランに言わせると、哲学者が「主観的感覚問題」と呼んできたものは「クオリア問題」そのものである。クオリアとは一人称の問題であり、決して三人称的に、つまり客観的に記述できないものである。「クオリア」の定義とは、私の立場から見たときに、科学的な記述を不完全なものにする私の局面である。なぜ、森羅万象の記述は、つねに二つ、つまり一人称の記述(「私は赤を見ている」)と、三人称の記述(「彼は、彼の脳のある経路が600ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ていると言う」)が並列しているのだろうか?とラマチャンドランは問う。そして、一人称と三人称の隔たり(つまり心と脳のあいだの障壁)は「超えられない障壁」だとみなされてきた。一人称と三人称の森羅万象の記述(「私」の観点と、「彼」あるいは「それ」の観点)を調和させる必要性は、科学の最重要の未解決問題である。これを解く鍵が「クオリア問題」にはあると彼はいう。
さらにラマチャンドランは問う。一人称と三人称の記述の障壁は絶対に超えられない壁なのだろうか?と。彼は「実はそんな障壁はない」という。この障壁は単なる見かけであり、それは「言語」が原因となっているだけなのだと。いま私たちが問題にしているのは、互いに理解できない二つの言語なのだ。一つは神経インパルス(私たちが赤を見ることを可能にしている神経活動の空間的・時間的パターン)という言語であり、二つ目の言語は、私たちが何を見ているかをほかの人に伝えることを可能にする言語である。問題は、他人に私のクオリア(赤を見るという体験)のことを伝えるときに、話し言葉を使うしかないというところにある。しかし、この「翻訳」をとばして直接に神経線維を使えば、神経インパルスそのものがじかに色の領域に届くので、おそらくクオリアという主観的体験を他者に伝達できるのではないか、とラマチャンドランはいう。
つまり、クオリアと自己は同じコインの表裏なのである。誰にも感じられずに自由に浮遊しているクオリアなどはありえない。また、クオリアをまったく欠いた自己というものも考えられない。しかし「自己」とは何だろうか?という最大の問題が残る。ラマチャンドランは、自己を特徴づけるいくつかの特性を挙げることで、その問いの解決に迫ろうとする。それは「身体化された自己」「感情の自己」「実行の自己」「記憶の自己」「統一された自己」「警戒の自己」「概念の自己と社会的自己」である。これらの多くがクオリアと関係し、生涯つづく自己の不可欠な局面を形成している。
脳は外界やそこにあるさまざまな物体の表象だけでなく、身体の表象を含む自分自身の表象も持たなくてはならない。この一種独特の再帰的な局面が、自己というものの謎を深めさせている。さらには、私たちが自己を統一されたものとしてあらわすのは、社会的な目的を達成し、他者にとって理解可能な存在になるためかもしれない。ここに最大の皮肉がある。自己がまったくプライベートなものであるのは自明なのに、その自己はかなりの程度まで、社会的な構築物——他者のためにつくりあげた物語——なのである、ということだ。クオリアと意識、そして「自己」の問題。いまだ解決されていない哲学的な、そして脳科学的な難問の解決の糸口が見えてくる、希望が見えてくるような一冊である。