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「根源的な神性への問い」としての「存在への問い」——ハイデガーの存在論と神との関係

存在者の「存在」は「存在者全体」と不可分であり、その「存在」はそこから切り離してわれわれがコントロールできるようなものではない(もちろん人間が存在者をコントロールすることはいくらでも可能である。しかしそのとき、その存在者の「存在」は度外視されている。逆に言うと、このように「存在」を度外視することが、存在者のコントロールを可能にしているのだ)。つまり人間が「存在」を真に経験するということは、「存在者全体」に対する自分の無力さを経験することそのものなのだ。ハイデガーはこうした「存在者全体」の人間を圧倒する性格のうちに、「神的なもの」、「聖なるもの」の起源を見て取る。「存在」の根源的な経験とは、それ自身においてまさに「神的なもの」の経験なのである。
私は第二章で、ハイデガーの「存在への問い」が「根源的な神性への問い」であると指摘した。しかし『存在と時間』では「存在の意味」が解明されなかったため、神性が「存在」に基づくものであることが表立って示されることはなかった。その後、「存在」を直接的に主題化するに至り、「存在」が現存在を「時‐空間」への「分散」を強いる圧倒性をもち、またそれこそが神性の本質であることが、このようにしてはっきり提示されたのだ。多くの読者はハイデガーのこの議論を見て、彼がこの時期に何か新しいことを論じだしたように感じる。しかし実際のところ、ここでは以前からの「存在への問い」への答えが示されているにすぎないのだ。

轟孝夫『ハイデガーの哲学:『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書, 講談社, Kindle 版. 2023.  p.169-170

本書『ハイデガーの哲学:『存在と時間』から後期の思索まで』は、マルティン・ハイデガーの思想を、前期の『存在と時間』だけでなく、中期から後期の思想までを俯瞰する形で、ハイデガー哲学専門家の轟孝夫氏が解説した入門書である。轟孝夫氏は、1968年生まれ。東京大学経済学部、教養学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。博士(文学)。専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。

ハイデガーは『存在と時間』刊行後現存在(つまり人間)の分析を介して「存在」にアプローチするという手続きでは、「存在」が意識内部の出来事であるかのように誤解されることを懸念し、「存在」の生起を直接、語ることを試みるようになった。そして中期以降のハイデガーは、「神性」という考え方を「存在」の解明において重視していく。実は『存在と時間』においても、キリスト教神学の考えが下敷きにされている。同書では「神」を直接論じていないものの、本来性と非本来性という考え方は、現存在が「存在」そのものに向き合う姿勢を本来性、そこから逃避する姿勢を非本来性と呼んでいるが、それは「神」に向き合う姿勢というキリスト教神学の考えを「神」という言葉を使わずに論じている形になっていると轟氏は説明する。この考え方からすれば、「良心」や「良心の呼び声」、「負い目」なども、内なる神性や原罪の考え方を元にしていることが理解しやすい。ちなみに『存在と時間』を刊行した1927年から、彼自身が「転回(Kehre)」と呼ぶ「存在の確信」を得た時期の1936年までの思索を中期、1936年以降の思索を後期とすることが多い。

ハイデガーは中期になると、「存在」の意味を「存在者全体(Seiendes im Ganzen)」という用語で捉えようとする。この表現によって、「存在」の生起が意識の表象ではなく、むしろ現存在を取り巻く「世界」のそのものの生起であることを強調して示そうとした。ここで、ハイデガーは古代ギリシアの「ピュシス(自然)」がこの「存在者全体」を捉えていたことに注意を促している。ハイデガーは中期になると「存在者全体」の、現存在を圧倒し、規定する威力のうちに「神的なもの」の本質を見て取るようになる。なおハイデガーはこうした神性の本質の規定に至るとともに、それがキリスト教の神と相いれないことを明確に自覚するようになっていく。ここにおいて彼はキリスト教と明確に袂を分かつようになる。

ハイデガーが「存在者全体」として捉えようとするのは、存在者が存在することの背景をなし、またこうした「存在」を可能にしている「場」そのものである。例えば、飛んでいる鳥のことを考えてみると、鳥の「飛んでいること」という「存在」の生起のうちには、こうした「飛んでいる」こと以外の鳥のさまざまな存在様態、ならびにそうした存在様態と結びついていた存在者すべてとの関係性がはらまれている。この「存在者すべて」は任意のものではなく、ある種類の鳥が存在することと本質的に結びついている。つまり、その鳥の「存在」が生起する「場」を形作っている。ハイデガーは「存在」を「存在者全体」と表現することで、「存在」を主観的意識の表象とするような誤解を避け、同時に「存在」の生起が、「時間」の拡がりのみにならず「空間」の拡がりでもあることを明示しようとした

そしてハイデガーは古代ギリシアの「ピュシス」の概念に注目する。「ピュシス」とは通常「自然」と訳されるギリシア語である。ハイデガーは私たちが「自然」として理解しようとしているものによっては到底汲み尽くせない内実をこの「ピュシス」から読み取ろうとする。ハイデガーは「ピュシス」の本質を「生長(Wachstum)」という動的側面のうちに見て取る。これはまさしく、彼が「存在への問い」において「存在」と呼んでいるものに該当する。ハイデガーは「ピュシス」を「存在者全体がおのれ自身を形成しつつ支配すること」と規定する。「存在者全体」はまさに「存在」の生起とともに形成される。「ピュシス」の定義も、この「存在者全体」の自己形成的な出来事を表現しようとしている。

中期ハイデガーにおいては、古代ギリシアの「ピュシス」という「異教的なもの(キリスト教的なものではないもの)」への還帰が際立ってくる。ハイデガーは前期の思索においても「存在」を「神的なもの」と捉えていた。また彼は「存在」の「圧倒的なもの」という性格のうちに神性の本質を見て取っている。つまり、存在者の「存在」が生起することにおいて、現存在は「時-空間」の拡がりへと否応なしに晒されており、またその際、現存在とはおのれが選んだわけではない身体へと委ねられている。こうした事態が「存在」の圧倒性として経験されるということである。つまり人間が「存在」を真に経験するということは、「存在者全体」に対する自分の無力さを経験することそのものである。

ハイデガーの「存在への問い」は「根源的な神性への問い」であった。『存在と時間』においては、「存在の意味」が解明されなかったため、神性が「存在」に基づくものであることが明瞭には示されなかった。しかし中期に至り、現存在の分析を経ることなく、「存在」を直接的に主題化するに至り、「存在」が現存在を圧倒する「ピュシス」としての性格をもち、またそれこそが神性の本質であることがはっきり提示されたのである。つまり、現存在とは「神的なもの」が生起する「場」であるということになる。このことをハイデガーは「神があらわとなるためには、人間が存在せねばならない」と語る。中期以降のハイデガーにおいては、ヘルダリーンの詩など芸術的言語のうちに「存在」の語りとしての言語の本質が純粋に体現されているとみなすようになる。ハイデガーは、詩・絵画・彫像・建築などの芸術作品が、基本的には「世界」の「語り」を蔵する言語に基づくと考えていた。その限りにおいて、あらゆる芸術作品に「世界」を開示する機能を見て取っていたわけである。

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