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ハイエクとフリードマンの違い——不確実性をどう捉えるか?

一般には、ハイエクとフリードマンは同じ思想の二人の代表者だと思われているが、実際には彼らの育った知的環境も、その基本的思想もかなり違う。ハイエクは前述のように、敗戦後のウィーンのニヒリズムの影響を受けて、政府が民間よりよいことができるという歴史学派などの介入主義に疑問をもった。
他方、フリードマンは大恐慌の最中に青春時代を過ごし、こういう事態に経済学に何ができるのかを考えるようになった。彼はハイエクのように哲学を語ることはほとんどなかったし、おそらく興味もなかっただろう。彼の思想的バックボーンは、ごく単純なアメリカ的プラグマティズムであり、合理的な個人と自由な社会への信念だった。(中略)
ハイエクの出発点は、「経験的な事実から、論理的に法則を帰納することはできない」というヒュームの懐疑だった。……ハイエクの自由論も、もとはといえばこうした懐疑主義にもとづくものだ。
しかしフリードマンにとっては、そういう哲学的な問題はどうでもよく、計量経済学という新しい方法論で自分の仮説を証明できればよかった。

池田信夫『ハイエク:知識社会の自由主義』PHP新書, 2008. p.115-117.

ハイエクの思想は今でも誤解されている、あるいは正当に評価されていないと言えるだろう。彼はケインズ経済学や社会主義による計画経済に反対し、市場経済と個人の自由を重視する自由主義の立場だったので、現在の「新自由主義」経済の先駆者のように見られることが多い。しかし、これは以前の記事でも書いたように誤りである(記事「ケインズとハイエクに対して蔓延する誤解——平時と危機時の経済学」を参照)。

ハイエクの思想の根本にあるのは、政府による介入主義や集権的計画経済への懐疑であり、哲学的にはデヴィッド・ヒュームの懐疑論の哲学などに基づく。懐疑主義の哲学、あるいは「不確実性」の思想が、ハイエクにはあるのである。ハイエクは、個人が合理的に行動することも完全な情報をもつこともありえないと考えた。そして、不完全な知識しかもたないがゆえに「不確実性」をともなう個人の行動をコーディネートする仕組みとして「市場」を捉えた。ケインズがこの不確実性を政府による介入によって除去しようとしたのに対して、ハイエクは市場によって不確実性は、長期的におのずから調整されると考えたのである。

一方、ミルトン・フリードマンの思想的バックボーンは、単純なアメリカ的プラグマティズムであり、ハイエクのような懐疑主義や不確実性の思想はない。彼の業績は主に実証研究であり、仮説が現実的かどうかはどうでもよく、仮説から導かれる結論がデータによって実証されればよかった。当時の経済学界では、数式による演繹的な経済モデルか、統計による計量分析が主流とみなされるようになり、フリードマンの計量経済学による新自由主義モデルが影響を広げていった。

ハイエクとフリードマンの思想は、政府よりも「市場」の機能を重視するというところで共通しているとはいえ、不確実性や不合理性をどう捉えるかというところで根本的に違っていた。また、金融政策についても、両者の考えは全く異なっている。フリードマンは、中央銀行が通貨供給の成長率を一定にすべきだという「マネタリズム」を唱えたが、これは理論的にも実証的にも疑問が多く、現在ではこの政策をとっている国はほとんどない。一方、ハイエクは通貨の発行も自由化し、民間銀行が通貨を発行してもよいと主張した。通貨発行の自由化は、電子マネーや仮想通貨(暗号資産)の流通などによって近年現実化している。ハイエクの予想は、半世紀以上の時を経て実現したのである。その意味で、フリードマンは合理主義者であり現実的である一方で、ハイエクは反合理主義者であり、未来的であったと言えるだろう。


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