西田幾多郎が考える「罪悪の起源」——『西田幾多郎講演集』より
西田幾多郎の講演集である『西田幾多郎講演集』が岩波文庫から2020年に発刊された。これらの講演記録は『西田幾多郎全集』には収められていたが、文庫本での発刊は画期的である。西田は論文執筆の傍らさまざまな機会に講演を行なった。自身が発表した論文の概要を聴衆に向けて説明するというスタンスの講演もあり、西田の思索をさらに読み解く手がかりとなる。
引用したのは「宗教の光における人間」という講演で、1927年(昭和2年)から翌年にかけて行われた京都大学での「宗教学」の講義記録の最終章である。この講義を聴講した久松真一(哲学者・仏教学者)は「これまで誰のいかなる講義に於いてもかつて経験したことのない宗教的感激と学問的緊張とをもって各週千秋の思いで聴講した」と回想している。西田哲学において宗教における「罪悪」や「救済」がどのような意味を持つのか、『善の研究』から最晩年の論文『場所的論理と宗教的世界観』に至るまでの西田の宗教哲学を読み解く上で、この講演は貴重な資料となっている。
引用したのは西田が「罪悪」の根源をどう捉えていたかを示す部分である。西田は罪悪の根源とは、私たちの「反省」の意識より起こると考えた。さらには、「私」というものを考えるところから罪の意識が生まれるという。端的に言えば「考える」ということそのものに、罪の概念が根ざしている。
さらに西田は「反省」というものはどうやって起きてくるかを考える。そこで、西田哲学における「実在」の理論(存在論)が登場する。私たちの実在は「自己発展の体系」であって、全体という統一的なものが発展分化したものが私たちの個の意識であると西田は考える。この分化したもの、分かれたものが私たちの反省の意識である。ここから罪が生まれる。これはキリスト教的に言えば、神から人間が分かれたとき、つまりは「楽園追放」によって罪が生まれたということである。
しかしながら、私たちは「全体」から分かれていても、その根本には分かれていないものを持っていると西田はいう。そして、私たちが本来的なる全体統一の中に含まれているということを知れば、罪の意識は消えるという。キリスト教的な神と人間の分離、あるいは規範と反規範といったような分離は、その「二元論」的なものの見方によって私たちに罪の意識を起こさせている。一方、仏教の考え方では私たちの実在に関して二元論的な見方はしない。「自他不二」や「多即一・一即多」という考え方によって、私たちの存在は、他者とは分かれているようで分かれていない、私たち個と多なる全体とは根源において分かれていないという考えを持つ。これにより、本来的に「悪」は存在しないと西田は考える。悪は二元論的な考えから出るものであり、罪悪を生み出しているのは、個を生み出している二元論的な私たちの思考である。つまり、こうした罪悪の「救済」は、この二元論からまずは脱却するところから始まる、と西田は主張するのである。