父のこと
父が心筋梗塞で倒れた。
そう、母から電話があったのがついこの前のことだ。
今から思い出しても、そのときの自分の感情がよく分からない。
いつまでも元気だろうと思っていた両親に、初めて起きた大病だった。
しかし「まさか自分の親が」と驚いている自分と、冷静に「心臓のどの冠動脈が閉塞したのか」と医師として冷静に考えている自分が混在していた。
数時間後、無事にカテーテル治療が終わり、命に別状がないと知ったときは安堵した。
しかし、本当に驚いたのはその後だった。
母が送ってきたカテーテル造影検査の画像は、3本の冠動脈のうち、最も太い血管の根本近くで閉塞していた。分かりやすく言えば、父は死んでもおかしくない重症だった。
父の運命の天秤が偶然にも命が助かる方に傾いた。倒れたときにそばに誰かがいた、あるいは救急車ですぐに循環器専門病院に行くことができたといった理由で。
父の心電図は、私が医学生などに「これが心臓の前のほうの壁が広範囲に虚血になる前壁梗塞だよ」と教えるときに使う典型的な波形を示していた。
それは父の心電図でなければ、医療者の私にとっては、よくある、ありふれた、いつも見慣れている波形であった。しかしそのありふれた電気的信号の裏に存在していたのは、父が救急車で運ばれながら、消えゆく意識の中で「自分はもう死ぬかもしれない」というただ一度の重大事を経験していたという事実なのだ。
私たちは、毎日同じような日々を繰り返していると思っている。
しかし、それは幻想なのだろう。
すべての現象はただ一回の出来事なのである。
それをカテゴリー化し普遍化し、繰り返す現象とみているのは我々の認識なのである。
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