そして笙野頼子は発見される――近代の限界に出現した〈アヴァン・ポップ〉の共振
*本稿は、今はなき雑誌『論座』(朝日新聞社)の2008年6月号の小特集「笙野頼子 文学の力」に寄稿させていただいたものに加筆修正を加えたものです。もう雑誌が廃刊になって久しいので、再録させていただきました。
アメリカの現代文学研究者ラリイ・マキャフリイは1990年代初頭、モダン/ポストモダンという時代区分にかわり「アヴァン・ポップ」という概念を提唱した。バブル末期の日本で爛熟した後期資本主義システムの空虚さとメディアの無責任な狂騒を目の当たりにし、ハロルド・ジェフィ、マーク・レイナー、スティーブン・ライトなど、一見ポップ・カルチャーと戯れているような新進作家たちの「新しさ」を、この資本とメディアの共謀関係への抵抗戦略と見抜いたのである。
マキャフリイはさらに、高橋源一郎や筒井康隆などの日本の同時代作家たちも同じ問題意識を共有していることに気付いた。なかでも笙野頼子の描くブレードランナー的風景に注目し、そこに日本のアヴァン・ポップを発見したのだ。笙野もまた、空疎な理論ではなく文学的実践を通じて「個」の場所からの抵抗を唱えるマキャフリイの姿勢に共感し、自らアヴァン・ポップ作家を謳う。その後も笙野とマキャフリイは共振を続け、昨年の再会と対話(『すばる』2007年10月号)でもお互いへの理解と敬意を再確認しあっている。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は「印刷資本主義(プリント・キャピタリズム)」が「出版語」を創出し、その言語をもとに国民意識が形成されたことを明らかにした(近代文学が国民国家を形成したというのは誤読である)。たとえばアメリカではフロンティアの消滅と同時期にSFが成立している。国家の完成とともに、人種的他者をエイリアンとしてSFというジャンルに隔離し商品化したのだ。このような資本主義による文学の商品化とメディアによる意識形成という問題への問いが、アヴァン・ポップの出発点である。
またマキャフリイ自身の思想形成とアヴァン・ポップの誕生は、ベトナム戦争と湾岸戦争の時期に重なる。昨年の来日の際にはマキャフリイ/アヴァン・ポップの思想的醸成と深化がみてとれたが、これはアフガン・イラク戦争を経由した成果であろう。アヴァン・ポップは、戦争とそれを生み出すシステムや国家と、個人がどう向き合うかという姿勢でもあるのだ。
笙野とマキャフリイが共有する重要な課題は、ネオリベラリズムと市場原理主義への抵抗である。80年代的俗流ポストモダンはすべてを相対化することで、結果的に無責任と無根拠への居直りを助長し、この抑圧的システムへと加担してしまった。本来は抵抗文化として誕生したはずのポップカルチャーも、今では抵抗の「ポーズ」を売り物にし、資本とメディアにとって不可欠の商品となっている。そしてこの抵抗の「ポーズ」をアリバイ作りに利用し、「反権力という権威」を振りかざすのが「おんたこ」である。
笙野は本三部作で、執拗におんたこ言説を変奏して引用する。おんたこ的スタイルや言葉が全く別の文脈に移植されても成立することを示し、それが具体的・個別的なものに因らない空虚な言説であることを暴き立てるのである。ネオリベは無責任に「現実などない」とすべてを視点と解釈の問題に回収し、あるいは自己責任に帰する(かれらはワーキングプアに向かって、「貧乏は気の持ちようだ」「努力が足りないせいだ」という)。そのネオリベ的無責任さを、笙野は「幻想も私にとっては現実である」というロジックを用いて糾弾するのである。
笙野がアヴァン・ポップを名乗ることに批判的な向きもあるようだ。だがそもそも作家は恣意的に様式や文体を選択しているわけではない。レイモンド・フェダマンは収容所で処刑された両親姉妹について「書けない」ことを延々と語る。1944年生まれのW・G・ゼーバルトはヨーロッパの諸都市を彷徨い、母の収容所体験という過去を幻視する。同じホロコーストという題材を扱っても異なった様式や手法を用いるのは、それぞれの姿勢や体験の違いからの必然的な帰結なのだ(したがって、「メタフィクションはもう終わりだ」などというのは文学者の言ではない)。笙野頼子が「おんたこ」三部作でも現実と非現実、生者と死者などの二つの世界を地続きにしてその間を往還するのは、「近代の限界に挑戦するため」(笙野)である。
一方、宗教をめぐってはマキャフリイとの対話の中で議論が戦わされた。乱暴の誹りを恐れずにあえて要約すれば、ユダヤ=キリスト教的一神教が根底にあるマキャフリイと、ハイブリッドな宗教観を持つ笙野のずれだったのだろう。本来極めて排他的だったユダヤ教が世界宗教であるキリスト教へと発展する過程で「融和」や「融合」への志向性が生まれ、それが西欧的思考の根源をなすことになる。マキャフリイ的アヴァン・ポップにも最終的には対立が止揚され一つに融合する、というユートピア性が垣間見えるのだ。
それに対し、笙野の宗教観の基本は「習合」と「混交」だ。「だいにっほん」三部作には、2ちゃん言葉を操る稲荷山古墳の主や習合ナノレンジャーなるものが登場する。前者は融通無礙な民間信仰のたくましさ、後者は習合と混交の果てに到達した笙野的宗教観が実体化した存在である、つまり西欧的アヴァン・ポップを日本的感性と習合させた笙野独自のアヴァン・ポップ文学そのものなのだ。
マキャフリイはセルバンテスから現代までを網羅する読書リストを講義で配っていた。そこは古典と現代文学が等価な場所だった。排除でも対立でも乱立でもなく混交させること、それがアヴァン・ポップだ。笙野文学はアヴァン・ポップの何たるかを示す「メタ・アヴァン・ポップ」なのである。