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三浦玲一 『ポストモダン・バーセルミ――「小説」というものの魔法について』(彩流社)書評

*本稿は『英語青年』(研究社)に寄稿させていただいた書評の再録である。おそらく私が『英語青年』に書かせていただいた最初の原稿ではないかと思う。また、この書評は故三浦玲一さん直々のご指名であったことを、後にご本人から伺った。大変光栄なことと感動したことをよく覚えている。

『ポストモダン・バーセルミ』(以下『PB』)は本邦初の本格的なドナルド・バーセルミ研究である。そして同時におそらく現時点で望みうるもっとも包括的なポストモダニズム論のひとつであろう。そしてこれは、じつは稀有なことである。
 ポストモダニズム論は本質的に「ポストモダン」とは何かという前提を巡るポレミックを内包する。したがってバーセルミのポストモダニティをどこに見出すかという問は、その「ポストモダン」の定義をめぐる議論を再び惹起し、バーセルミから「ポストモダン」を定義するという同語反復に陥りかねない危険を孕むのである。だがあえてこのアポリアに挑んだ『PB』はその同語反復を回避しながら、批評理論と作家・作品論がダイナミックに相互に議論を深め合う様を描き出し、斬新なポストモダン/バーセルミ解釈を生み出した。


 三浦氏の博識と知性が生み出す精緻かつ広範に渡る議論を、私ごときが要約するのは無謀な行為だが、その浅学非才にも『PB』の主題は明白である。ポストモダニズムおよびバーセルミを60年代的な「解放言説」から決定的に自由にすること、そして新たな文脈からその両者に共通するポリティックスを再評価すること、この二点である。そしてその政治学は、言語による主体の構築をめぐる脱構築戦略として読み解かれていく。
 『PM』はまず短編の「風船」を手がかりに、後期モダニズムからポストモダニズムへの移行の歴史を論じる。それは実存的・実体的な身体概念から行為遂行的(パフォーマティブ)に構築される身体表象(の不可能性)への移行である、テクストは、作者という主体に還元されない記号の戯れが、行為遂行的(パフォーマティブ)に「テクスト」という身体/主体を形成する過程そのものとなる。たとえば『雪白姫』は断片化と反復によって非主体化されたテクスト/ヒロインの「身体」を「症候」として表象することで、「身体なき分裂症的主体のアレゴリー」となる。したがってこのテクスト/ヒロインは同心円的に、ジェンダーの言説によって構築される現代的主体の「多幸症的なパロディ」となる。
 テクスト/ヒロインの同心円的構造とは、メタフィクショナルな構造の謂いである。したがって『PB』ではポストモダニズム小説は何よりも、「作品が意味付けられる解釈枠を問題化する」メタフィクションとして読まれる。ただしこの(ポストモダン)メタフィクションは、言語や意味形成そのものを主題とするかつてのそれではない。これは作品とその解釈枠のメタ構造、言い換えればバーセルミの小説とポストモダニズムの同心円的構造をも前景化する形式だからである(付言するなら、ポストモダニズムを「表象/代表制度」への根源的な異議申し立てとする『PM』において、バーセルミをポストモダンの「代表」と読む余地は、当然ながらまったくない)。断片化と反復というバーセルミ/ポストモダンの行為遂行的(パフォーマティブ)な振舞いは、父権的な法と秩序に統御されない「身体」の表象である。そこで『死父』という作品は、空虚な中心を隠蔽する父権的な言説、つまりエディプス神話という父殺しによって自らを父と為す「男性主体構成の物語」のパロディとなるのだ。
 最後に『PB』はジェンダーの起源(の幻想)の検討へと踏み出す。たとえば「同一性から排除され同一性を排除する、純粋な差異の戯れ」としてのエクリチュール・フェミニンは、その差異の戯れによっていかなる主体を形成しうるのか(あるいは形成できないか)。その問いから、「私」の行為は「ジェンダー」によって秩序化し構造化されるという、ジェンダーのテクノロジーによる「主体構成の物語」へのバーセルミの批判的視座が浮かび上がる。バーセルミは「権力の審級としての言説/ジェンダー」のみを抽出し、「ジェンダーの強制の(必然的な)失敗」ポストモダン・パロディとして描き出す作家なのである。最後に『PB』はジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』をネグリ/ハートの『帝国』と接続することで、ジェンダーのテクノロジー「ナショナルな表象/代表制度」と同義であることを明らかにし、返す刀で『パラダイス』がジェンダーと表象制度の失効を主題とする「帝国」的作品であると結論づける。


 最終章の末尾、60年代的解放言説と「帝国」の「共犯関係」を明らかにしたところで、本書がやや唐突に終わるという印象が残ることは否めない。だがこれは安易な解放言説に与することなく、現時点でのポストモダニズムの限界を見極めようとする著者の誠実さに他ならない。本書の開かれた結末に、三浦氏の新たなポストモダニズム論の展開への期待を抱くのは私だけではないだろう。
 蛇足ながら誤字脱字と思われる箇所、表記の不統一(100)、組版の乱れ(108)などが散見される。今後ぜひ改訂をお願いしたい。それだけ長く読まれるべき書物であるのだから。


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