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感情をあらわにする機会

『風に立つ』を読んだ。

図書館で予約してた本。5ヶ月?くらい待ってやっと読めたので、「なんで興味を持ったか?」はもう覚えていない。

この著者の本は初めて読んだが、それなりに人気があるらしい。読んだ本をブクログで登録しているのだが、どの本も数千件ほど登録があった。

そんなことは中々ない。ある程度名前が知られた作家なのだろうと思った。

この本のコメント欄には「柚月裕子さんの文体はどれも読みやい!」というようなコメントがあった。たしかに読んでいてスラスラ読める。

他の本も読んでみようと思った。

本書は、補導委託(問題を起こした少年の更生をはかる機会の1つ)の少年を南部鉄器の職場で受け入れ、親方親族と一緒に生活するというお話だ。


その少年を親が急に連れ戻しにくる場面。少年の母はこんなセリフを言う。

「そうです。安定した暮らしがあるから、人はなにかに怒ったり、誰かを憎んだり、思い切り悲しむことができるんです。生活に困窮したら、そんな余裕はありません。自分の感情に浸ることもできないんです」

p296

この文章を読んだとき、職場で感情をあらわにする人が頭に浮かんだ。

自分ごとで考えてみれば、慣れない環境で金銭的にひっ迫しているのなら、指示されたことに忠実に従うな、と。
(よっぽどのことがない限りは)

すぐに感情をあらわにする人は、印象が強く残りやすい。さらには、そのイメージを払拭するのは難しい。

新人の頃はさておき、そういう人は「我を出しても受け入れられる」「仕事の成果を出している」と思っている人なんじゃないだろうか。

特に、仕事の成果を出しているから我を出しても受け入れられる、と考える人は多いと思う。

それは自分が「稼ぎ柱の1人で、売り上げをあげているのだから、自分の考えは間違っていない、そんな私の意見は受けられる」と考えるからだ。

成果の出していない人や新入りは多くの場合は指示に忠実で文句は言わない。

それは自分がいつ切られても(ハブられても)おかしくないと思っているからである。感情をあらわにすることで「仕事はできないし、指示も聞かない」と思われて「おまえはいらない」と言われることを恐れている。

それなら「仕事はできないけれど、指示には忠実」の方が「やることはやっている」と思われてまだいい。
(ここにはもちろん「最低限はやってるけどねぇ~、他の人に比べたら...」と、どこまでも愚痴はつきない。)

以前、感情を出さないことの弊害もあることを知った。

一人でいると、感情の起伏が大きくなるだろう。他者と接するときには、きっと誰でも我慢をして、感情を押し殺しているはず。そんな時間ばかりだと、だんだん感情が鈍くなるのでは?

『静かに生きて考える Thinking in Calm Life』森博嗣

精神的に病むと、「何が好きなのか」「何が楽しいのか」「何をしたいのか」が分からなくなる。

感情をあらわにする機会が減れば減るほど、自分についてよく分からなくなる。

社会で生きていく上では、感情を押し殺すことが美徳にされているように感じる。しかし、人間的に健康であり続けるのなら、やはり感情を表現していくことは必要なものだと思う。

周りに示す必要はないのかもしれないけれど、自分がどんな出来事に対してどんな感情を抱いたのか、記録しておくことが大切。私も気分が落ち込んだ時はノートに書きなぐっていた。

論理的になぜ感情が必要なのかは分からない。だが、人間とロボットの違いでよく挙げられるのは感情の有無だったりする。

ロボットに感情をもたせることはできるのか?ということはよく議論される内容だが、仕事をロボットに代替えさせるのなら、感情は不要で淡々と永続的に動き続ける方が間違いなくいいだろう。

人間でもこれだけ人間関係で悩む人がいるのに、「ロボット関係」も出てきたら、問題を増やしているだけだ。

間違いなく問題を起こしたロボットのどちらかは工場に送られて再調整を余儀なくされるだろう。

ロボットで仕事が代替えされていくと、人間らしさが出る仕事。人間だから間違ったり、口論したりする(できる)仕事が残るんじゃないだろうか。

仕事の内容に人間っぽさが出るものが多くなる。対人関係なら間違いがあってもいい仕事がになるんじゃないんだろうか。

そうでなければ、「これなんで人間がやってるの?ロボットでいいんじゃない?」ということになる。

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