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昨日のわけがわからない【日記】について

昨日の記事は1ヶ月前の10/12に8割方書き上げたものでした。
(ハッシュタグに「熟成下書き」を入れています。そもそも1ヶ月前のことを日記と言ってもいいのか?)

昨日、「何を投稿しようか?」と悩みながら、溜まっている下書きを読み返していました。そんな中の1つです。

文章量的に申し分なかったものの、読み返してみて、「続きが書けなくなって途中で投げ出したんだろうな」ということが容易に分かる内容でした。

そして、「この文章の結論をどう持っていこうか」と悩み、社会的な価値と人類的な価値の違いに触れていたことから、「社会的な疎外されても、人類から疎外されていない」という、どこかで読んだ表現を後で加えるのを忘れてしまったことに気づいてつけ足しました。

ここで終わってもまあ良かった(全く良くない)のですが、「終始何書いてんだろ。」感はぬぐえませんでした。

そこで、内容が理解できなかったので、chatGPTに解読をお願いしました。笑

以下がchatGPTによる解釈です。

この文章は、日常的な出来事から出発しながら、個人の「価値」とその社会的文脈を深く掘り下げる内容です。「舞台に立つ機会」というテーマを中心に据えていますが、それは単なる演奏会の話にとどまらず、社会的な存在意義や人間の価値についての哲学的な問いへと展開しています。以下のように理解できます。

1. 「舞台に立つ機会」の比喩性
冒頭の「舞台に立つ機会」は文字通りのステージでの経験を指しつつ、大人になると希少なものになるという認識を述べています。この「舞台」という言葉は後半では、社会の中での役割や価値を得る機会、つまり「目立つ」「認められる」機会を象徴しているように思えます。

2. 若さと価値
子どものうちに「舞台に立つ」ことが比較的容易であることを指摘し、「若さ」の持つ社会的価値に話を広げています。その価値が無意識的に享受されている一方で、大人になるにつれて価値を「獲得」することの難しさを感じさせます。

3. 価値観の二重性
社会における価値(役立つかどうか)と、人類としての価値(存在そのものの意味)の二重性を鋭く指摘しています。この違いが、特に「誰かを傷つけてよい」と感じる場面において重要な意味を持つとしています。
「社会にとっての価値」と「人類にとっての価値」を区別する視点は、私たちが「自分」や「他人」をどう捉えるかを見直すきっかけを与えます。

4. 疎外と孤独の再解釈
「社会から疎外されていても、人類からは疎外されていない」というフレーズは、孤独感をポジティブにとらえ直す考え方として提示されています。社会的な評価や価値に縛られることのない存在のあり方を示唆しています。

文章の意図と印象
この文章は、個人の体験から抽象的な哲学的テーマへと自然に展開しています。「舞台に立つ機会」を通じて、社会の中での価値のあり方を問い直し、最終的には人類としての価値や疎外感の克服に視点を向けています。
一方で、後半に出てくる概念や引用(戸谷洋志やジュディス・バトラーなど)がやや急に展開され、議論が飛躍している印象を受ける部分もあります。全体としては、個人の経験を深く哲学的なテーマにつなげる点がユニークで、思索的な文章と言えます。

chatGPT

自分で書くのもなんですが、自分が考えてた以上に鋭い考察でした。
(書いた当時はそんなことを思っていたのかもしれません。)

一番ハッとさせられたのは、「舞台」という言葉を「社会活動」に当てはめたことです。考えてみれば、社会活動をするためには、何かしらに認められる必要があります。
(資格や届けなど)

そんなchatGPTの解釈を受け、自分なりに以下のように解釈しました。

この文章は、お祭り会場で演奏する学生を見て貴重な機会に恵まれていると感じたことを起点に、一般的な機会獲得や社会的な価値へと焦点が当てられていく。社会的な価値が無くなること=死のように捉えられがちな世界である。それは学校生活から社会人生活を通しても変わらないことが書かれている。だから人はそこに悩み、しがみつこうとする。しかし、一歩、社会から疎外されたとしても、私たちは舞台で立つ人を見るお客さんという視点を得られる。その立場では、誰が社会から疎外されている存在か分からない。だから、人類から、私たちは疎外されていない。

自分の文章に対するこの解釈が的を得ていることを確認し、最後にこの文章を入れて締めくくりました。

自分が舞台に立てなくなったとしても、私はお客さんとして、舞台を見る側には立てる。そしてそれを理解することができる。見る側においては、自分が社会から疎外されているかどうかは判別できない。他のお客さんを私も判別できない。私は人類からは疎外されていない。

「【日記】舞台に立つ機会」

書き終わってからも、自分がこう考えてしまうことに疑問を覚えました。疑問点が以下です。

この文章は自分が社会を担う立場だからこそ、そこで活躍することが全てだと思い込むことから生じる悩みを表している。
だが、社会を支える立場でなくとも、お客さんも社会を成り立たせる一員である視点が抜けていると考えられる。そこはある意味自分が支える側にいるからこそ見えにくい視点だとも考えられる。
見る側がいなければ、そこが「舞台に立っている」という感覚もない。

「私が社会を担う」なんて書いてますが、あくまでも年齢的な意味で、現役世代のいち個人と捉えてください(大層なことは考えていません)。そう思っているからこそ、舞台に立つことが全てだと思い込んでいて、お客さんの存在がいてこその舞台なのに、大切なことに気づかない。

そんな視点から書いているからこそ、お客さんは社会の一員ではなく、社会から疎外されていると捉えている。

自分の人生で考えても、誰かあかの他人が自分の人生を見ていると思えないのと一緒です。自分の生きている人生そのものが社会であり、自分の人生を見る側の視点に立てないからこそ見えない。

というところで、まあ、この辺にしておきましょう。

この文章は全く需要がありません。

「自分の過去に書いた文章を理解する」という試みが自分の中で新しいと思ったので、書きました。

「なんとなく以前書いたかも?」くらいの分析をして、引っ張ってくることはよくあります。ですが、ここまで逐一チェックしながら「私は何を書いているんだ???」と考えたことはありません。そういう初めての機会として書き残しておきます。
(もしかしたら、こういうネチネチした文章が増えるかもしれません)

では。

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