「頑張ったことはなんですか?」
これを聞かれることが苦手だ。
自分の中で頑張ってたとしても、「本当に頑張ったか?」と言われると簡単にイエスとは言えない。
頑張ってたかは自分の気持ちの問題だ。周りがいくら「頑張っていた」「サボっていた」と言ったとしても、自分の中ではサボっていたかもしれないし、頑張っていたことかもしれない。
さらに、「頑張ったか?」は定性的な話だ。
そもそも、これを聞かれる場面は大人が子どもに対してか、面接くらいだ。
定性的な話でも通ずることはあるが、おそらく互いにすれ違いは多少ある。それでも話が通じるのは質問や補足説明をしながら、知りたい情報を補っているからだろう。
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定性的な話よりも、定量的な話の方が説得力が増す。なぜなら話が具体的だからだ。物事を説明される時は抽象的な話よりも具体的な話の方が理解しやすいだろう。
では、定性的なものを定量的な話に持っていくのはどうしたらいいだろうか。
私は「頑張ったこと」を「時間をどれだけかけたか?」に置き換えられると思う。
長年続けてきたなら、そこに継続力が見られる。たとえ期間が短くとも、それなりの成果を見出しているのなら、要領がいいことが分かる。
継続力があるのなら、「その継続力を持続させたことは何か?」。要領がいいのなら、「物事をどんな方法で進めていますか?」などと話が繋がる。
こういった話は頑張ったことにしても聞かれる話なので、置き換えても問題ないように感じる。
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日本人はある程度、努力に人情が入ることも多いと感じる。
自分が時間をかけたことに対して「努力」と呼ばれるかは人それぞれだと思うが、努力=時間をかけたことという認識は間違っていないと思っている。
「それを努力とは言わない」ことに対しては何らかの成果を求められる。それで努力と認められる。
はたまた、他人から努力と思われることでも自分では努力ではないこともある。
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頑張ったことを時間をかけたことに置き換えたとしてら、年齢層が若くなるにつれ「スマホ」と答える人が多いのではないだろうか。
しかし、スマホと一口に言ってもやっていることは違ったりする。SNSなのか、tiktokなのか、YouTubeなのか、ゲームなのか。
SNSなら相手の心理状態が気になるとか、おしゃべりが好きとか、情報を常に手に入れたいとかあるだろう。
しかし、それで「何かしら成果がありますか?」と言われたら、確かに「…」となってしまう。
これがさっき書いた「努力」として認められない例だ。
だが、ここで「SNSでフォロワーが10万人います」と言ったとすれば、それはたちまち頑張ったことに様変わりする。
そこには誰もが到達できない希少性があるから、頑張ったことになるのだろうか。
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正直、自分でも人の認識がどこからが頑張ったこと・努力したことに変わるのか分からない。
けれども、頑張ったことを時間をかけたことに置き換えることはいい考えだと思っている。
頑張ったことなら、「頑張ったわりにはその程度?」と頑張ったことの先を見られるから、「何も頑張っていない」と答える。
しかし、時間をかけたことなら自分が頑張ったかどうかは見られない。
相手方には物は言いようにとられるかもしれないが、こういった質問をされて答える身としては客観的で機械的な答えのほうが言いやすい。
私が「頑張ったことはなんですか?」と聞かれることに抵抗感があり、そこから半分逃げるための答え方ではあるが、どうしても答えなければいけない状況において、自分を守るための手段としては有効的だと思う。
もちろん書いたように、自分が頑張ったという精神性を問われているのなら別問題だが、周りからしたら頑張っていたかどうかは態度だったり、成果でしかない。なら、時間という客観的なことを示したほうが現実に即しているのではないだろうか。