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脳内の独り言に聞き手はいるか?
よく頭の中で独り言を言っているのだが、口調や単語選びが人と話すときと違うと感じた。
具体的には、親密な相手に難しい単語を並べて話し倒す、という表現が近い。
「文章は誰かに宛てて書くのがいい」というのは、よく聞く話だ。
それが今、スッと腑に落ちた。
独り言でも「私」という聞き手がいる。その「私」に対して、通じる言葉選びが書いたような話し方なのだ。
ここでの言葉選びは自分相手なので、ある程度難しい言葉を選んでも通じるし、ショートカットができる。そんなことから選び出したのがこの話し方だと思う。
これをnoteに置き換えてみる。すると、「インターネット」という読み手がいる。
多くの人が想像する読み手というのは、インターネットを通して自分の文章を読んでくれる特定の誰か、だと思うのだが、私は「インターネットという何者か」がいるように書いてる。
時には子どものような振る舞い、ときには老人のようにも見える。そんな不思議な相手。しかし、書いたような「インターネットを通した特定の誰か」を想像できていない状態とも言える。
平野啓一郎の『分人』の考えを引用すれば、「インターネットに相対する私」と考えられる。ことあるごとに「分人」の概念を使っているが、どんな自分でも肯定できるから、という理由があるのかもしれない。ここでは踏み込まない。
私がインターネットというよく分からない相手と話をするために選んでいる口調、言葉選びが今書いているような態度だ。しかし、以前から何度も書いているが、自分がどんな言葉選びで文章を書けばいいのか悩んでいる。それは私の中でインターネットというものの輪郭をつかめずにいる証拠と考えられる。
これはこれで正しいのかもしれない。私は、インターネットが幼い子どもにも見えるし、熟練の老人にも見える。幼い子どもに難解な言葉で話しかけても伝わらないし、熟練の老人に赤ちゃん言葉で話しかけても、門前払いされるだろう。
実際に、インターネットは多種多様な構成員で成り立っている存在だ。それを一義的に「こういう人」と見立てて話すのは間違っているのかもしれない。
しかし、私たちはインターネットが当たり前の世界に住んでいて、インターネットを通して見る個人を経験で形作った枠に当てはめて判断する。ひとたび口調や言葉選びが変われば、アカウントの売買が行われたとか、中の人が変わったとか、そもそも複数人が運営していたが個人を出すようになったとか、精神が不安定になっているとか、想像を巡らせながら判断する。それはやはり、インターネットを通して1つのアカウントを個人として考えているからだ。
ここで考えたいのは、自分がインターネットを通して誰かを見る目は、個人を見る目と同じなのにも関わらず、自分はインターネットを個人として考えられていない。なんとも不思議な話に感じる。
なぜこんなことが起こるのか。
それは、インターネットと自分が会話できている、コミュニケーションを取れている感覚がないからだろう。
これまで書いてこなかったが、私が文章を書く理由はインターネットに対して自分の話が通じるかを測っている。話が通じているかどうかの指標として、「反応」を気にしている。そこで私は反応がもらえないから、話が通じていないと考えて、「どういう語りで書くのがいいんだろう?」と悩んでいる。インターネットで自分の居場所を見つけるためにはどんな語り口調で、どんなことを書けばいいのか。それを模索している。
こうやって書いてみると、「私がなぜ文調に頭を悩ませているのか」がスッと1本の線でつながったように感じる。ここでの1つの答えは、よく言われている「誰か特定の個人に宛てて書くこと」だ。
インターネットを通して多くの人物が見ていることは誰しもが理解している。だが、その全員に合わせて文章を書くことはできない。だからこそ、ペルソナのようなものを設定して、文章を書く。それが特定の個人へ宛てて文章を書くことだ。
「特定の個人」が中々見つけられない私は、仮想特定の個人を「自分」として想定している。だが、書いたように私が自分宛てに書く文章は、親しい友人に向けて、難しい言葉を並べて話すようなものだ。だから、伝わらないし、反応がもらえない。こういうレトリックだ。なるほど。