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【『風景によせて2022』コラム第2回】「純粋持続」を捉えるために――〈LST〉と時間② 《前編》

●はじめに

このコラムはタイトルの訂正が必要かもしれません。

というのも、前回からなにげなく使ってきた「時間」という概念は、今回論じるベルクソンの議論の中心にあり、しかもそこで乗り越えられんとする対象そのものだったのです……初手から気詰まりですが、多少高まった解像度を手に、今回も〈LST〉について考えてみたいと思います。

まず、前回のおさらいをします。ソノノチのクリエイションにおいて「時間」がどのような意味を持つのかを考えるため、「時間」が問題になる場面を3つ取り出しました。

  1. 「ゆっくりさ」:作中の要素、および制作プロセスの相対的遅さ

  2. 「時間の複層性」:風景一般、また〈LST〉作品が一般に持つ、時間の流れが違うものが一つの空間に存在している性質

  3. 「自分らしい時間の流れの回復」:〈LST〉の鑑賞における空間的同一化と時間的異化を通じて自身の唯一性を実感するプロセス

今回行いたいのは、これらの相互にバラバラに出された論点を、ベルクソンの議論を使ってつなげていくことです。

Photo: Wakita Tomo

●「純粋持続」に向けて:ベルクソンの議論

アンリ・ベルクソン[1859−1941] [1*]は19世紀後半から20世紀初頭にかけて世界的に影響力を持ったフランスの哲学者です。「時間」については、代表作でもある学位論文『時間と自由[2*]』(1889=2001)の中で取り扱っており、いくつかの概念はその後の著作でも大きな位置を占めています。

今回はこの『時間と自由』を中心に、ベルクソンの議論を追っていきます。大きな誤解がないことを願いつつ、できるだけ用語を絞ってベルクソンの時間論を説明すると、こう言えるかと思います。

時間と意識はともに『持続』である。そして『持続』に触れるには、『直観』を用いなければならない。

▷「(時計の)時間」と「持続」

ベルクソン曰く、我々は時間の性質を誤解しています。

想像してください。壁にかかったアナログ時計の秒針をじっと眺めている。チッ、チッ……と音が鳴るたびに1秒が過ぎる。まるで、現実自体がこのような個別の「今」という単位に分けられているように感じないでしょうか[3*]?これをベルクソンは空間的、線形的、あるいは機械的な時間の捉え方と呼びます。確かに、私達は空間の中で1cmを測るように、時間の中から1秒が取り出せるかのように感じます。

これでは実際の「時間」の本質を捉えそこねている、とベルクソンは言います。「時間」には始まりも終わりもなく、切れ目のない全体として存在しているからです。過去と現在は相互に浸透し、現在と未来も同様につながっています。

「時計の時間」は切り分けられないはずの時間を便宜的に分けることのできる、便利な道具です。時計がない世界は想像することも難しいですし、そのおかげで秩序ある生活を送れている。しかし、この道具を使ううちに、私たちは時間の「切れ目なさ」を忘れてしまう傾向にあります。

そこで、ベルクソンが用意したのが「持続」という概念です。「持続」とはその名の通り、切れ目なく、常に動いていて、変化し続けます。ベルクソンはまさにそのようなものとして(普段私たちがなにげなく呼んでいる)時間や意識を捉えている。例えばメロディーを聴くとき、音はそれぞれが独立しているのではなく、「相互に浸透し合い、有機的に一体化する」(ベルクソン1889=2001:128)と感じられる。持続とはそのようなイメージで捉えられます。

▷「純粋持続」を捉えるための「直観」

メロディーは一音一音を切り離して理解することはできませんが、そのメロディーから一音を取り出すことはできるように思えます。これは私たちが「一音」という区分を設け、その音を一つの塊として記号的に認識してしまうためです。その意味で、メロディーは持続でありながら、空間的な要素が入り込んでいます。このメロディーの例えは持続というものを理解する助けにはなるのですが、空間の要素が含まれいない“持続そのもの”を捉えているわけではないのです。

ベルクソンは“持続そのもの”のことを「純粋持続」と呼びます。「純粋持続」とは「いっさいの言語・概念・記号を振り払って自己内界に深く深く沈潜するとき、そこに直覚的に感得される生動そのものとしての自我・人格の存在形式」(中田2015)などと説明されます。注目したいのは「直覚的に感得される」という部分です。これは「直観」される、と言い換えることができます。「直観」とは、「内側」からある対象を知ることです(中村2021)。反対に、言語を用いて外側から知ることは「分析」と呼ばれます。

「純粋持続」は私たちの意識に直接与えられている本来の時間です。そして、この純粋持続を把握するには「直観」を用いるほかない。

ここで注意が必要なのは、言葉で「純粋持続」を捉えることは本質的にできない、ということです。言葉の使用することは空間的な営みなため、説明すればするほど、まるで「純粋持続」が“もの”であるかのように思えてしまうのです。

「意識は、区別しようとする飽くなき欲望に悩まされて、現実の代わりに記号を置き換えたり、あるいは記号を通してしか現実を知覚しない」とベルクソン(1889=2001:154)は言います。このような傾向は私たちが言葉を覚え、現実をより細密に分けられるようになるほど進行します。現実は本来の変化し続ける相互浸透的な姿から、変化の止まった空間に姿を変えてしまう。

私たちの世界の実在、触れている時間、主体である意識はすべて本質的には「持続」です。しかし、根底にある「純粋持続」にはなかなかアクセスができない。これはこれらのものを捉えるときに、空間性が入り込んでしまい、「分析」的に見てしまうためです。私たちは「純粋持続」を捉えるために「直観」を用いないといけない。これが取り急ぎ、今回の話に関わる範囲でのベルクソンの議論の要約です。

●「純粋持続」を捉えるための〈LST〉


Photo: Wakita Tomo

〈LST〉を鑑賞したり、その特徴を説明された経験を持つ人なら、上記の説明を読んだだけでベルクソンの議論と〈LST〉が目指しているものの間にある程度の共通性を感じると思います。

〈LST〉とは「純粋持続」を「直観」的に捉える営みではないか。これを探るために、前回考えた3つの場面を取り出して検討してみましょう。これらの場面はベルクソンの考える「持続」の議論にどのようにつながってくるでしょうか?

▷「時間の複層性」→「自分らしい時間の流れの回復」

まず、「時間の複層性」「自分らしい時間の流れの回復」について考えます。前者は風景のもつ性質、そして後者は〈LST〉のひとつの目的だ、とその時は書きました。

ベルクソンの議論において、時間は「純粋持続」です。これは定義上、要素に分けられない、相互浸透的な一体です。その意味で、時間の「層」という言い方は、ベルクソンの議論の上では不正確です。しかし、ベルクソンは我々の意識が絶えず記号を固着させるため、時間を空間として捉えてしまう傾向がある、とも言っています。ならば、私たちの時間の空間的認識は「層」になっていてもおかしくありません。

時間の複層性ではなく、時間の認識の複層性。このように理解するとベルクソンの視座のもとで〈LST〉が理解できるのではないかと今は思います。すなわち「時間の(認識の)複層性」とは、風景の持つ性質ではなく、風景を認識する際の我々の意識の段階だと言えるのではないでしょうか?

例えば、ある人が〈LST〉を観にいきます。生活での様々なストレスや心配事を抱えながら、指定された位置に腰を下ろし、風景を眺めているその人は、おそらくまずは「分析」的に風景を見ています。あそこに木がある、山がある、車が通った。空間を記号を使って分けながら、風景を分析していく。このような認識の中で、この人は「複層性」への気づきを得ます。これがまさに中谷さんが経験した、風景が「数日間の短い命を生きる虫と何十億年もの時間を燃える太陽が共存し、それぞれがそれぞれの時間を刻む空間だ」と気づくような経験です【210930】。

もちろん、このような気づきを得ることは〈LST〉の経験に中心的なものですが、この段階の先で「自分らしい時間の流れの回復」を得るためには、「分析」をやめる必要がある。私の理解が正しければ、「自分らしい時間」とは、ベルクソンがいう意識に与えられた「純粋持続」としての時間に触れる時間にほかなりません。

そして、「純粋持続」に接近するには「直観」を用いなければならない。〈LST〉を観ることは、「分析」から「直観」に意識のスイッチを切り替える様々な仕掛けが施されていると思います。例えば、記号的な表現が排されていることです。もちろん、鑑賞者の内面には入り込めないので、鑑賞を始めた時点で風景を分析的に見ることを止めるすべはありません。しかし、セリフを排し、抽象化されたパフォーマーの動きや地域の人々の生活の様子を見せる過程で、段々と分析的な意識が削がれていく。なにより、風景の大部分を構成する自然の要素は純粋持続に準じた存在です。その前で言語的に解釈できないものを一定時間観ることで、鑑賞者は「直観」で意識するように促される。よって、「自分らしい時間の流れを回復する」ことを志向する〈LST〉は、純粋持続への接近の方法だと考えます。

後編へ続く

*注釈
1.「アンリ・ベルクソン」(Wikipedia 日本語版)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3
2.原題は『意識に直接与えられたものについての試論』と訳されるもので、この題の邦訳も存在する。
3.この時計の秒針のイメージはThomson(2021)の記事から借用している。

Photo: Wakita Tomo

●筆者プロフィール
柴田惇朗(しばた・じゅんろう) 
芸術社会学。主テーマは「小劇場演劇・パフォーミングアーツの価値の社会的生産」。ソノノチでは過去数公演でアーカイブとしてプロジェクトに参加しながら、フィールドワークを行っている。立命館大学大学院先端総合学術研究科・博士後期課程、学振特別研究員DC1。


●前回記事
「時間が問題になるとき――〈LST〉と時間①《後編》」 はこちら

●『風景によせて』連載コラムの全編はこちらから

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