
「生きる癖が怖い」を受け入れる
youtubeなどで時々流れてくる7秒間で記憶をなくす方のニュースを見た。
前に見たときには感じなかった、
「私も強くなりたい」
という思いが湧いてきた。
私は物心ついたときから、
良く在る事が努力や生き方の方向だった。
良い事をして褒められたいという気持ちは感じていないが、
良い人であるから
一生懸命に仕事をするから
長く付き合う相手ができるわけではなかった。
心の境界線がちゃんと育っていないから、
仕事では、大変な事を頼まれても断ったり、助けを出せないでいた。
というか、引き受けて、実践するのが役割だと思っていた。
仕事が終わらなければ、自分の力量の問題だと思っていた。
「それやるから帰っていいですよ」と言ってくれる人に、
「でも、私が言われたから」と思っていた。
この時バウンダリーという言葉は知らなかった。
ダブルスタンダードで、あなたはあなたを大切にしろと言いながら、
人の人格や仕事との向き合い方にずけずけと踏み込んでくる人と出会って、
どこで線を引くか、
どこを受け入れないか、
その人の事を考える時間を自分の中に持つ必要はない、
など、自分なりに対策をしてきたが、
私の生きにくさの一つはここにあると思う。
ネガティブナルシズムの考え方から自分が離れる事
人に親切にせずにいられない自分を手放す事
自分を形成してきたものを手放しても自分が無くならない事を確認していくのが良さそうだ。
夫が私に無言で望んでいる事に
人権侵害だと思う位怒りや虚しさや卑下の気持ちを持つ事があるが
自分の投影なのだ。
愛されていない事実を集めてきて
愛されそうになる
助けられそうになる
とその手を握り返せない。
自分の権利を侵害するような人間の事を必要以上に受け入れようとする。
それは、もうやめたい。
やめられてきた部分もある。
自分の事を愛してこれなかったから、娘をそれに巻き込んだのだという思いがあるのなら、
ーそれも自分のストーリーの部分と、本当に娘が苦しかったり、思慮深い人に育った部分への影響もあるとも思うけれどー
自分の事を愛する事をやっていく
自分自分と考えなくても生活ができる
そんな風になる事が大人として、先に生まれた人間としてできる事だろうか
と思う。