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喪失の経験 半年経つ頃まで

「怒りと追及」から、「娘が見たらどう思うか」が芽生えてきた時期です。
もう繰り返し繰り返しです。
自分の記録を見たら、また吟味し始めそうになって、どうしようもない気持ちになり、読むのをやめました。
その繰り返しの中で、自分の波がどの程度なのかモニタリングする練習をカウンセラーさんとしていきました。
危機の状態に耐える方法も教えてもらい、「だめだ」と思ったら、それも繰り返しました。

娘がどんな事に苦しかったのか、
自分のどの行動がどうだったのか、
通院していた病院の対応について、
この時はより具体的に吟味しました。

吟味は、私には必要でした
耐えられずに自分の作ったストーリーに引き込まれないように注意は必要でしたし、気持ちがあふれる事もありましたが。

やはりこうしたかった、
こういう事はこの時は考えられなかった、
この時ああいう顔をしていたのはこんな事だったかもしれないと彼女との時間を思い出す、
家族に本当はこう言いたかった、
こういう家族だったから彼女は頑張りすぎたのではないか
等々、確認をしました。

一方で、どのことも本当かどうかわからない事を知るのです。
ファクトチェック(リアリティチェック)というそうです。

思い知るもあるし、
本人の気持ちは本人しかわからない。
本人もわからない事もあるかもしれない。
その上で私が思いたい事もある。
というか、娘は、私だけが原因で生き方を決める様なそんな相手なのだろうか。

そして、この時期にだんだんと私の姿を娘が見たらどう思うかという思いを持つ様になりました。

彼女は、私に元気でいてほしいとは言うけれど、
こんな風に泣いているのを見たら、
きっと困った顔をしたり、そっと肩に手を置いたりするでしょう。
彼女が生きていたら、私は彼女に言うでしょうか。
あなたのせいでこんなに苦しい、と。
きっと言いません。

そこからまた、別の方向で情報を集めていく様になります。
自分がどう生きていくかのヒントを集め始めました。

この時期は、いや今もですね、娘がどれだけ素敵な子だったのか、苦しい以外の事もたくさんたくさんあって、いろんな対処もしていたのに、じゃあどうして今いないのだろう、本当にいないという事が矛盾の様に感じられて、寂しさでは言い表せない気持ちが高まっていました。


真っ暗な光の届かないところから、ちょっとずつちょっとずつ掘りやすい土の方へ。
登ったり下りたり、遠回りしたり、同じところにいたり。
自分では見えないけれど時々土の感触を確認しながら、
雨や光を感じられる方へ。