何もしなくてもいいのだ。

何かしなきゃいけない。意味のあることをしていないともったいない。何もしていないことは、堕落した人間、諦めた人間がすることでよくないことだ。こんな考えで生きていた時期がある。だいぶ長い間。小学校5年生くらいから、28歳くらいかな。常に何か将来のためになることや、自分のレベルアップに繋がることをしていなければ居ても立っても居られない、そんな状態。今振り返ると、だいぶしんどい時期だったなと回想。心の底で、そのままの自分ではいけない、そんなことを思ってた。こういう状態って、一見努力してるし、向き合ってる物事の量をこなしているから、能力が上がってたり、為になってる気がするんだけど、全部そこそこなんだよね。強迫観念的に、恐怖からスタートして取り組んでいるから、吸収率も悪いし、色々と腑に落ちてなくてただ表面をなぞってわかった気になってるだけになってることが多いしね。なによりも、多くの時間を不安と焦りを抱えて生きている状態だし、精神的にだいぶきつい。きつい上に、色々そこそこだし、つまらないし。楽しいことよりも辛いことの方が意味があるって考えてた時期だから、顔つきとか張り詰めすぎて怖いってよく言われてた。鬼瓦のような笑。また、自分がきついことしてるからって、他人にもきつさや厳しさを振り翳しはじめたりする。我慢する人は、他人がその我慢をしてなかったら許せないみたいな。そのまんまその状態を続けていっても、そこそこだし、つまらないし、きついと歳を重ねることに徐々に気づいていくことができて、色々と変わってきた。まず、その強迫観念的な何かしなきゃは、なんであるのかってこと。これは、自分に不足感を抱えていて、その不足を埋めるために、能力を必要としたり、いろんなことをして充実を得ようとしたり、あとは周りもそうしてるしそれがいいことだと思っていただけだということ。根本に不足感があるから、いくら満たしてもすぐ飽きて、次、次と同じことを繰り返すだかってこと。これは、ラットレースのような感じで永遠に終わりの見えない苦しみを自らしているってこと。ネズミさんは、きついとかではなくてただ走るのが好きでしてるだけだとおもうけど笑。不足感こそが、思考が作り出した虚構だし、それが虚構だと気づけてそぎ落ちた。また、きつい、辛い、しんどいことが成長するために必要なのかってことを見直した。苦行みたいなことが結果とか幸せに繋がっているならもちろんこの先喜んでしようと思っていたが、全く繋がってなかったし、ただ空回りしていたこと。目的の為に何かをするってことで満足して、全くそのすることを楽しめてなかったし、目的も達成できてなかったってこと。なにか達成できたとしても、喜び一瞬、また辛いに舞い戻るということ。嬉しい、楽しい、心地いいを逆に選択するようになって、だいぶ気楽になったのと、続けることが苦しくないし、すること自体が目的になって結果を全く気にしなくなった。なのに結果が勝手に前よりも格段に出るようになったこと。もちろん結果が出ることは嬉しいのだけど、それがお目当てで無くなって、日々のすること自体が幸せになった。そうなってから、何かしなきゃいけないが消え去って、何もしなくていいという状況が現れた。この状況はとてつもなく幸せな状態。何もしなくていいし、何かしてもいい。規制のない、脅迫のない自由な状態で、どこに向かう必要とない状態。この状態になってから、とっても楽になった。本来、何かしなきゃいけないことなんてなんもないってことを思いだしたというかね。あらゆる状態にいいも悪いもないし、ほんと何もしなくていいってこと。し、何かしてもいいってこと。そういうこと。

今回は、何もしなくてもいいについて
書いてみました。

色々と何かしなきゃと張り詰めてしてきたことがあってこそ
このように反転したのかなとも思います。

ではまた〜。

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