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原宿の男

「僕たち今日、結婚記念日なんですよ。ちょうど5周年で」
「クリスマスに入籍なんて素敵ですね。おめでとうございます」
 コの字型のカウンター席。隣に座る男性がカウンター内のスタッフと談笑している。
 彼らが結婚記念日なら、私たちは離婚記念日だ。夫と「最後の晩餐」をするため、クリスマス・イブの日、表参道のフレンチレストラン「L’AS」にいた。

 左隣に座る夫は淡々としている。
「そっちの生活は快適?」
 半年前にぎくしゃくし始めてから、夫は私の名前をほとんど呼ばなくなった。用件だけ口にするか、呼びかけをするにしても、「そっち」とか「ねえ」とか、そんなものだ。最初のころは「未帆」と呼ばれなくなったのが、悲しくてしょうがなかったが、不思議なもので次第に慣れた。気持ちが離れたら、仕方ないよね。納得感が生まれてからは平気になった。
「うん。浅草、かなり住みやすいよ。銀座線も浅草線も乗れるから便利。下町の感じも好きだな」
 2カ月前、別居をスタートした。ふたりで3年近く住んだ中目黒の賃貸マンションを引き払い、私は浅草へ、夫は原宿へと散った。
「Aの新しい住まいはどんな感じなの」
 夫は引っ越しに伴い、1LDKの築浅物件を購入した。金持ちだなあ、信用があるんだなあというのが、率直な感想だった。大手外資系化粧品会社でコミュニケーションマネージャーを務める夫は稼いでいる。どうせ買うなら再婚を見越して、3LDKでも買っとけば良かったんじゃない、と言いたくなるくらいに。
「いい感じだよ。気に入ってる」
「後でちょっと見にいってもいい? 見たい」
「うん。もちろん」

 L’ASにはメニューがない。正確に言うと、いつ行っても9〜10品のコース料理が1種類だけ提供され、3週間ごとにメニューの内容が変わる。袋入りの「フォアグラのクリスピーサンド」はこの店のスペシャリテで、初めて封を開けたとき、わあ何これと無邪気に叫んだものだ。こってりしたフォアグラクリームが、薄いウエハースにたっぷり挟み込まれ、「アイスみたい。ハーゲンダッツっぽいね」と話しながら食べた思い出が甦る。
 初めてL’ASに来たのは結婚1周年の記念日だった。3年前の12月24日。それから3年、まさか離婚届を持参して、再訪するとは思いもしなかった。
 結婚したときは離婚なんて1ミリたりとも頭をよぎらなかった。脳内に広がっていたのは花畑と安心感だった。愛する男と結婚できたこと。ハリー・ウィンストンのエンゲージリングをもらったこと。新婚旅行は2カ所行こうと話したこと。他者に評価され、自らも評価する恋愛市場から脱出したこと。
 結婚がどれくらい続くかなんて考えもしなかった。でも、付き合った瞬間、別れに向かって船を漕いでいく恋愛と同様、結婚にも永遠なんてないのではという、冷静な視点を持っていても良かったんじゃないか。それを理解したとて、この離婚を食い止めることはできなかったと思うけれど。

 1年ほど前から、夫はセックスを拒否するようになった。「ごめん、今日はそんな気分じゃなくて」「仕事で疲れて眠たくて」「ちょっと元気ないみたい」「お酒を飲みすぎたからできないかも」。4種類の言い訳を順番に使い回す夫に、私はキレた。
「几帳面か! 結局さ、あなたはしたくないんでしょ? 私と」
 毎日とか週数回の頻度で求めているわけではない。1週間に一度、週末のどちらか1日だけ。生理があるから厳密に言うと月に3回。夫とセックスでしかできないコミュニケーションをとりたかった。さすがに2カ月拒否され続けると、我慢ならなくなって、爆発してしまった。
 口を閉ざす夫。性的なことについて、妻主体で進められる話し合いなんて、夫にとっては面倒以外の何者でもないだろう。それに……目を合わせようとしない夫を見て思う。セックスレスのストレスに鬼化した妻を見ると萎えるのも無理はない。気持ちを抑えた。
「ごめんごめん。もう怒らないから。何が原因か教えて。直せるものがあれば直したいから」
 しばしの沈黙の後、夫はぼそっと答えた。
「未帆を女性として見れなくなった。未帆は俺にとっては、女性じゃないというか……」
「あ?」
 唖然とした。馬鹿みたいな返ししかできない。
「だから、なんというか……」
 夫は何か言いたそうだが、言葉を濁す。
「はっきり言え!」
 目の前のローテーブルを叩いて怒鳴る。正面のソファに座る夫の肩が跳ね上がった。出会ってから今まで、荒々しい言動を見せたことがない私に怯えている。
「すごく言いづらいんだけど、未帆のことが女性に見えないんだ。だから、できない……」
「じゃあ何に見えるの?」
「言えない」
 どうしても言おうとしない夫に業を煮やして、自分を傷つける覚悟で問いを重ねる。
「私だから勃たないってこと?」
「……」
「性的魅力を感じないから、いざ裸になっても勃たなくて、それで拒否ってたってこと?」
「うーん……」
「答えて! ちゃんと答えて!」
 テーブルを叩く右手が痛い。それでも叩きながら叫ぶことしかできなかった。
「う……ん」
 認めた夫。
「ごめん、今日はもう寝たい」
 そう言い残し、夫はすばやく立ち上がって個室へ逃げ込んだ。鍵をかける音がした。
 目覚めると夫の姿はなく、ローテーブルに突っ伏して泣きながら寝ていた私の目元は醜く腫れ、顔全体がひどくむくんでいた。最悪。

 その後も話し合いの場を設けようとしたけれど、事態は変わらなかった。
「じゃあ、他の人とセックスしてもいい? あなたは私としたくないし、『女に見えないから無理』っていう、配慮の欠片もない言い方で拒否する。でも、私はしたい。セックスだけ外で済ませてもいい?」
「うーん……ちょっと嫌かも。でも、仕方ないのかもなぁ」
 同じ部屋で各々雑誌をめくりながら、夫は私の話を聞き流していた。あるいは聞き流すフリをしているように見えた。毒にも薬にもならない返答しかしない夫。
 身勝手なものだ。「未帆とは無理。したくない」と拒否しておきながら、セックスを外注するのは嫌がるなんて。「でも、仕方ない」という言葉を真正面から受け止めて、その晩、知人男性に連絡をとった。前職の同僚で、ふたりで飲みに行くこともあった年上の独身男性。酔った勢いでキスまではしたことがある、そんな甘酸っぱい記憶もある相手。
 再会したとき、相手は「4年ぶりの連絡に驚いた」と話していたが、その程度のブランクはすぐに埋まった。渋谷・道玄坂の焼鳥屋「ジョウモン」で腹を満たした後、ホテル街へ向かいながら私は言った。
「ねえ、運動して帰ろ?」
 相手は一瞬「運動?」とキョトンとしたが、すぐに合点がいったようで「ああ、運動ね。夜の運動」とつぶやいた。以後、仕事終わりに渋谷で夕食からのラブホテルというコースが定番となり、月に1回と決めて彼と会っていた。
 不貞行為。わかってはいたけれど、夫で埋められないセックスという穴を彼で無理やり満たそうとしていた。4回くらいしたところで、虚しくなってやめた。生身の人間を相手にしているのに、自慰行為をしているのと同じ感覚になったのだ。彼を性具扱いしている自分が最低だと思えたし、愛してもいない相手とのセックスは、別れた後、高揚感なんて少しもなくて、気怠さと大事なものを失った感覚しかなかったから。

 デザートを食べ終わって外へ出る。夫のマンションがある原宿方面へ歩く。私たちは食べ歩きと散歩、旅行が好きで、仲が良かったころは、週末の1日は必ず都内のどこかをそぞろ歩きをしていたし、2〜3ヶ月に一度は国内外を旅していた。
 外を歩くときはたいてい手をつないでいたけれど、最後に手をつないだのはいつだろう。
 初めて手をつながれたのは付き合う前で、体温が1〜2℃上がったんじゃないかと思えるくらい、体の奥からじんわりと熱くなったのを覚えている。落ち着いた関係になってからも、夫と手をつなぐ度に温かくて、幸福な気持ちが満ち溢れていた。おじいさん、おばあさんになっても手をつないで散歩する私たちを想像していたのに。
 付き合う前の男女や友人くらいの距離感が、今のふたりの間にはある。半年前から徐々にその隙間は大きくなっていって、どうにも埋められないレヴェルになっていた。前後にゆれる夫の手を見ながら、もう二度とそれにふれることも、ふれられることもないのだと再認識する。いよいよ終わりなのだと。
 
「ねえ、この3年間、どうだった?」
 我ながらあまりにも雑な問いかけだと思ったが、結婚最終日だから総括をしたかった。
「楽しかったよ」
「私と付き合って、結婚して良かった?」
 口にした後、さすがに「良くなかった」とは言いづらいだろう、と反省する。相手を追い詰める質問をしてしまった。
「うん。未帆と出会ったことに後悔とかないし」
「そっか」
「そっちは?」
「私も楽しかったよ。まあ、3年で終わっちゃうなんて、想像してなかったけど」
「それは俺も」
「でも、始まりがあれば終わりもあるっていうか、愛が生まれた途端、別れに向かって走ってるんだと思うよ、人間っていうのは。瀬戸内寂聴先生が『人は別れるために出逢うのであり、出逢うために生きるのである』って書いてたよ。それに超同意」
「んー、そうなのかな。俺はずっと続く愛もあると信じたいけど」
「あなた、年1くらいで、ロマンチストになるよね」
「未帆のことも好きだったから、続くと思ってた。俺はね」
 半永久的な愛を信じていたっぽい夫。愛なんて消えゆくのが前提だと思っている妻。今さらそんなこと言うなバカ野郎。最後の最後に私の名前を呼ぶな卑怯者。

「やっぱり、マンション見にいくのやめた。帰る」
「へ?」
 バッグから折り畳んだ離婚届を取り出して夫に押し付ける。
「自分のは書いて捺印したから。あなたの分書いたら提出しといて」
「え、うん」
「元気でね。体に気をつけて」
 ぽかんと立ち止まる夫を残して竹下口交差点を渡り、竹下通りを足早に歩く。夫は追いかけてはこない。さよなら。
 最後に弱い心があふれ出て、「やっぱりやり直そう」「もう1回だけチャンスが欲しい」と夫に縋りつきそうになるのを阻止したかった。
 もう会うことはないから、毅然とした態度でふるまう、凛とした自分を夫に見せたかった。カッコ悪い、女々しい自分は見せたくない。離婚に際して涙を流す自分なんて見せたくない。クリスマス・イブに原宿に集う幸せそうなカップルたちを何組もずんずんと追い抜いていく。ひとつの恋や愛の真っ最中にある彼らとひとつの愛を断ち切った私。

 山手線が原宿駅のホームに入ってくる。窓に映った自分を見て吹き出した。涙のせいでアイラインとマスカラが落ちて、目の周りがパンダ化している。クソみたいなクリスマス。でもここまでうんこみたいなクリスマスを一度経験しておけば、さすがに二度目はないだろうとも思う。神様も慈悲の心を持って忖度してくれると期待したい。涙を拭って電車に乗り込んだ。

【作中に登場した店】
L’AS
https://retty.me/area/PRE13/ARE23/SUB2302/100000859848/

【参考文献】
『ひとりでも生きられる』(瀬戸内晴美/集英社文庫)


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