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絶対的な「少女」の孤独。
■少女まんがの神髄とは「孤独感」である。
その作品から感じるのは、絶対的な孤独感でした。救いようもない孤独感。
作品とは、大島弓子さんの「バナナブレッドのプディング」。女子にしか理解できないと言われる普及の名作です。橋本治さんが、「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」を著す際に、改めて向かい合うことになった大島弓子さんの作品です。
少女マンガの特異性について、少々の使命感を持って語ることになって改めて開いたのが「バナナブレッド~」でした。
実は、作品掲載当時、私は、大島弓子さんの作品が苦手でありました。あまりにも、自分とかけ離れた世界に思えたのです。主人公たちのセリフひとつひとつが舞台がかって嘘くさく思えたのを覚えています。自分と関係のない物語。それが、大島さんの作品でした。
世間的にポピュラーになりえない存在。それが当時の「少女マンガ」でした。それこそ、読者は少女だけに限られており、おとなや男子に馬鹿にされていました。お目々キラキラのお人形様のお涙頂戴のメロドラマとして。
例にもれずに、私もそういう目で少女マンガを見ていたひとりでした。
でも。一旦その世界に触れるや、その魅力の虜となりました。その吸引力たるや。いままで、どこを探してもみつからなかったもの、自分に必要なものがここにある。その勢いで少女マンガを貪り喰うことになったのでした。
「少女まんが」は、私たちが生きるための何かを提供してくれたのではないか。まんが家になる目標をもつことで、私は何度も自死したい欲望に襲われつつも生き延びました。過去を振り返るごとにこう思うようになりました。「少女マンガ」とは一体なんだったのだろう、と。
■全存在をあげて「現実」を否定するしかなかった少女たちへ
「少女まんが」という存在が私を惹きつけたのは、その「物語」でも「キャラクター」でもありませんでした。(物語もキャラクターも一部の「少女マンガには存在しません」
作者の「魂のつぶやき」それが、私にとっての「少女まんが」でした。作者が負っている傷が作り出した幻想・幻惑。それが作品になります。それはまるで「美しい詩」のようなものでした。それに、読者である私たちも「感応」したのです。同じ傷をもつ者として。そして、そこに浸ることで「現実を忘れようと」したのでした。少女まんがは、私たちの「一時的シェルター」だったのです。
少年まんがが、「友情」「勝利」という「現実にどう適合するか」「どう成功するか」を核にした妄想を提供するのとは反対に、少女まんがは「絶対的に現実を否定」することから始まっています。「現実否定」。それも、全存在をかけた。
少女まんがが使うキーワードをみるとそれは明らかです。
「物狂い」
「幽霊」
「男色家」
「バンパネラ」
「完全体」
「ナインぺたん」
etc.
「女性としての肉体」の拒絶から否定は始まります。
男女の区別がつかない棒のような身体を持つ登場人物たちの世界が「少女まんが」なのでした。女性がいなければ、そこには男性も存在しません。つまり、「少女まんが」には、SEX(性別)が存在していないのです。
自分は「肉体」ではない、と叫んでいるのです。「肉体」以外の自分が本当の自分なのだと。全存在を賭けて行われる作家の「現実否定」。それに感応する読者。よくあるハッピーエンドの恋愛ストーリーの中でも、作品の中では、少女は「肉体や容姿や若さゆえに選ばれる」のではありません。主人公は主人公であるがゆえに選ばれます。
「そんなきみが好きだよ」と。
里中満智子さんの作品(作品名失念)に、ある老女と知り合ったことで自分の幸福を疑いだした少女の話がありました。彼女は恋人に問いかけます。「私が、白髪だらけのしわくちゃになっても愛してくれる?」と。躊躇する恋人にさらに尋ねます。「永遠に私を愛してくれる?」
大島弓子さんの作品には、男色家のキャラクターがしばしば登場します。
「バナナブレッドのプディング」では、主人公の理想の男性像が「うしろめたさを感じている男色家の男性」です。自分が性の対象でない、ということが確定していることが彼女には大事なのです。そうでないと安心できない。
少女まんがの男子登場人物は「去勢」された存在です。少女を選別したり搾取したりすることは金輪際ありません。彼もある意味、作品の中では「身体がない」ということになります。
生きるということは、身体を伴っているということです。排泄。生理。射精。出物腫れもの、すべてが、人生です。それらをひっくるめて否定したのが「少女まんが」であるといえましょう。
その世界に一石を投じたのが、山岸涼子さんの「天人唐草」でした。
この作品には「性」があります。主人公は父親の価値観そのままに自我と性を押し込めたままおとなになります。が、父親が亡くなった時、彼が愛人を持つ「単なるオス」であったという事実が判明し、彼女は自己崩壊、打ちひしがれた彼女は強姦され、発狂してしまいます。
ダブルスタンダードを押し付けてくる男。
女性を性欲の対象にしかとらえない男。
これらは、私たちが見たくなかった「現実」そのものでした。
女性に、デラックス・マツコ好きが多いのも、頷けます。彼の前なら、女性は安心できるのです。彼との関係性には「性」は存在しません。「選ぶ」も「選ばれない」もありません。関係は、「好き」「嫌い」この言葉だけで事足ります。
相手が男性の場合、選ばれても選ばれなくても、女子には厳しい現実が待っています。選ばれないということは、女子にとっては致命的でした。それは、生きてゆけないということに他ならなかったからです。
職業を持って自活していても、「選ばれなかった女」の烙印を背負わなければなりません。
女性の権利や地位の向上が叫ばれる今においても、女性はまだ個人として「選ぶ」ことができないでいます。長い間「選ばれる者として」思考してきたので、主体としての自分が確保できないのです。私たちは「愛される」「愛されない」という言葉ではなく、常に「選ばれる」「選ばれない」という言葉にからめとられてしまうのです。
一方、選ばれる女子になるには、徹底的に「自分を殺す」ことが求められます。
「天人唐草」の主人公の父親に代表とされる男性に、望む女性像を一方的に押し付けられ、「良い恋人・良い妻・良い母」を演じることを強いられます。
強いられる、といっても言葉で指示されるわけではなりません。男性の表情や態度から、どうすれば彼の機嫌を損ねないですむかを知らされる、ということです。
だから、選ばれたとしても、その実「役を演じる彼女」が選ばれたのであって彼女自身が選ばれたわけではないことを彼女は知っています。若さや容姿が衰えれば、夫の関心が自分以外の女性に行くことさえ予測できる。
選ばれたらおしまいではないのです。
彼女は、選ばれ続けなければならないのです。選び続けるなら、わかる。自分主体ですから、それは意思の力でなんとでもなるでしょう。でも、
選ばれ続けなければならないとしたら。それはもう、無私の地獄のようです。
私たちが否定していた「現実」がどんなものか、うっすらわかってきました。
女性は常に「選ばれる」存在です。「肉体や容姿や若さ」で。道具のように消費されるために。それは、21世紀の今でも基本変わりません。選ぶのは男性。選ばれるのは女性、なのです。
少女たちは、自分が自分であるがゆえに愛される、ことは永遠にあり得ないと悟っています。そう覚悟したとき、彼女たちにできるのは、女になることを拒絶することでした。これは、自分の「性」「身体」を徹底的に排除した世界の妄想を持つ「BL」につながる系譜でもあります。
東日本大震災の翌年開かれた、高校時代の同窓会を思い出します。
かつてのクラスメイト達。女子たちのほとんどが、「覚悟を決めて現実に飛び込んだ側」です。彼女たちはどんなおとなになっていたでしょう。
ひとりは言いました。「どれだけ私が、我慢して破綻のないようにやってきたか」
もう一人は言いました。「私たちがこんな(満たされない)なのは、みんな、親のせいなのよ。」
私の卒業した高校はまあまあの進学校で、生徒のほとんどが大学に進学します。彼女たちは「いい子」を演じたまま、現実世界に飛び込むことになります。
どんなぼんくらでも男子であれば、自動的に出世できる社会。女子はそのサポートとしての役割しか与えないそんな社会に。
そこに、夢はあったのでしょうか?
彼女たちが彼女たちである幸せは、そこにあったでしょうか。
家政婦であれ。娼婦であれ。母親であれ。と望む男達のなかで、彼女たちは安らぐことができたでしょうか?
あれほど一生懸命自分を殺してきたのに、なぜ自分は幸福ではないのか。
「幸福」とは何なのか、それすらわからない。
それは彼女たちの悲鳴でした。彼女たちは、「誰にも何も強いられない状態」の自分というものがわからないのです。いつも、誰かの希望を察知してそれを受け入れ演じることで生きてきたせいで自分本来の感情というものが「思い出せない」のです。
選ばれても選ばれなくても地獄。それが女子の人生なのでした。
一方、私はまんが家として「女を降りる」ことで、幸運にも自分を保ったままおとなになりました。
そんなある日、私は奇妙なことに気づきます。
世の中にたくさんの人気まんが作品があるにもかかわらず、自分がそれらを読みたいと全く思わなくなっていることに。
誰かにすすめられた作品すら、手に取れません。もう、まんがは必要ない。少なくても、それは「自分の欲しているものとは違う」。なぜかそういう確信があるのです。
私が望んでいたものは、すべて「少女まんが」の中にありました。消耗品でも、娯楽でもない。社会の生贄としての「少女」に必要なもの。
痛みを和らげるモルヒネのような存在。
痛みの原因をとりのぞくことはできないけれど、共に泣いてくれる、それが、少女まんがなのでした。
現実逃避だって、立派な生きるための戦略です。いくらでも逃げればいいのです。逃げながら自分の居場所をみつければいい。女子として生きるには、しんどすぎるこの世の中ですから。
メディアミックスやクールジャパンとは無縁な、少女まんが。
その妄想は、私たちの魂を陰で支えているのです。