水子供養に行った時、つい涙が出たお坊さんの声かけ
こんにちは、名字が変わるかもしれないSONOCOです。
名字が変わるかもしれない???というかたは、前回の記事をどうぞ↓↓
はい、それで、いろいろやったほうがいいと言われたことの一つ、水子供養へ行ってきたんですが、そのときのお坊さんの声掛けからの気づきがあったのでこちらで残しておこうと思います。
気づきをくれたお坊さんの一言とはなんだったのか。
それは、
「お友達がいっぱいできるようにお水をたっぷりとかけてあげてくださいね」
です。
よくある声掛けかもしれません。
中には、
(え・・・??どこで気づきがあったの???)
なんて、思われる方もいるかもしれません。
でも、私はこの言葉を聞いた時に、自然と涙が出てきたのです。
はい、きっとその涙は、あの子の涙じゃないかなって思うんです。
で、なんで涙が出たのか、です。
これはね、「寂しかった」からなんじゃないかと。
そりゃそうですよね。
10年以上もそのままにされてきたわけですから。
それでもずっと近くにいたんだなって思うと、胸が締め付けられます。
私自身、若かったとはいえ、そのままにしてしまって、本当にごめんね、寂しかったよね。とようやく声をかけてあげることができました。
もちろん、声をかけながら私自身もまた涙が出てきます。
その涙は、私自身の涙なのかその子の涙なのかわかりませんが。。
そして、それから思うのは、子どもっていうのは、ほんと健気なんだなと。
今回の一件で、母親になったけれど、形としての親ではなく、本当の意味で、命をつないでいくための役目を持った人間として、ちゃんと胸を張って生きられる大人になりたいなと思いました。
それから、その子が私から離れられなかったのは、「寂しかった」んだな、って、ようやく気づいたのです。
そして、寂しかったのは、私自身も同じ。
心の奥底で、なんとなく満たされない思い、寂しい思いがあることにも気づけました。
「お友達がいっぱいできるように」
その言葉を受けたとき、ちょうど経木がたくさん置いてあったのが目に入ったからかもしれませんが、
「あぁ、これでもう寂しくないね、お友達いっぱいできるね」
となんだかふっと嬉しくもなったのです。
水子供養の経木がたくさんあって嬉しかったなんて言ったら怒られるかもしれませんが、なんだかようやくつながりができたんだね、よかったね、という気持ちになったのでした。
なんで寂しくなるんだろう?
なんで一人ぽっちの気持ちになってしまうんだろう?
それはきっと、その時その時に起きたことへしっかり向き合わずにおいてきた感情があるからなのかもしれません。
だって、私たちは、ひとりじゃないんですよ。
1人で生まれたわけではないし、今まで誰の手も借りずにここまできたわけじゃない。
でも一人ぼっちの気がしてしまうのは、ただただ向き合うのが怖いからなんだろうな。
「ひとりじゃない」
それがわかるだけで、「安心感」につつまれて、人はどこまでも大きくなれる気がします。
お墓がどうとか、跡取りだとか、ご先祖様だとか、周りで言われていても、そんなんに縛られたくない!なんて、正直意味を感じていなかったけれど、ここは、もう一度学びなおすポイントに来ている気がします。