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『薔薇王の葬列』と不適切な身体

限界漫画オタクの初投稿
拙文ですが、よろしくお願いします・・・

1.はじめに

『薔薇王の葬列』は菅野文が秋田書店月刊プリンスで連載している漫画作品である。シェイクスピアの歴史劇『ヘンリー6世』、『リチャード3世』を原作とし、15世紀イギリスで起きた薔薇戦争を描く。本作品の最大の特徴は、主人公リチャード・プランタジネット(後のリチャード3世)を、両性具有の人物として描く点である。原作『リチャード3世』では、主人公リチャード3世はせむしの醜い人物と描かれているが、本作のリチャードは美しい人物造形を得た代わりに、両性具有故に母から「悪魔」と罵られ、自身の身体性について葛藤し続ける。本論考では、作品内におけるリチャードの身体がリチャード自身及び他者からどのように扱われているかに注目し、性的な身体性と政治について考察していく。

2.両性具有者と「王の二つの身体」

リチャードは父や兄の死後、バッキンガム公爵と政治的同盟を組み、王位を目指す。バッキンガムはリチャードにとって政治的パートナーであると同時に、肉体的関係を伴う性的パートナーでもある。ここで注目すべきなのは、彼はリチャードに政治的には男性としての振舞いを求める一方、セックスの際はリチャードに女性としての役割を求めている点である。また、バッキンガムはリチャードが妊娠を「おぞましい」と語ったことを発端に、彼を監禁(1)。王位を捨て、「女」として自分の傍にいろと迫る。だが、リチャードは政治的主権を手放すことを拒絶する。最終的にバッキンガムはこの件を原因に反乱を起こす。

作中のバッキンガムのリチャードに対する振舞いを見るに、リチャードの身体は両性具有という一つの身体が、男性的身体と女性的身体に分離されていると考えることができる。リチャードという王の身体が二つに引き裂かれているという表象は、ドイツ出身の歴史学者 E.カントーロヴィチの『王の二つの身体』に通じる。カントーロヴィチは中世イングランドにおける王が自然的身体と政治的身体に分離していたと主張する。自然的身体は通常の肉体であり、偶然性や生物的脆弱性に晒される身体である。政治的身体は不可視の抽象的存在であり、統治機構を象徴する身体である。政治的身体は自然的身体に優越し、カントーロヴィチは清教徒革命において議会勢力が主張した「王(king)を擁護するために王(king)に対して闘え」という言葉を紹介する(2)。自然的身体である王が厄介になり殺害したとしても、政治的身体である王は存在し続ける故に、その行為は正当化される。

カントーロヴィチは14世紀イタリアの法学者バルドゥスの学説を引きながら、両性具有者という存在が、法学的にみて王の二つの身体に当てはまると述べる。バルドゥスは「より優れた価値をもつものは、より劣った価値しかもたぬものを自らへと引き入れる」というラテン語の法諺と両性具有者を結びつける(3)。二つの極の結合が生じた存在において、極の諸性質が存続するのであれば、より卓越し顕著な極が他方の極へと自らを引き入れるからである。このバルドゥスの見解をカントーロヴィチは政治的身体の自然的身体への優越を表す根拠として示しているが、これは両性における男性の優位を表しているのではないだろうか。王の二つの身体を両性具有者と重ねるカントーロヴィチの解釈は、政治的身体=男性的身体、自然的身体=女性的身体という解釈につながると私は考える。

『薔薇王の葬列』において、リチャードは公の場では男性として振舞い、バッキンガムとの逢瀬など私的な場では女性的に振る舞う。統治権力を象徴する政治的身体には、女性的身体という「より劣った」能力しか持たない身体は相応しくないという規範が、作品世界では通底しているのである。故にリチャードは母親になるということに強い嫌悪感を示し(4)、自身の女性性をなるべく払拭しようと努める。王という政治的身体にとって、それに不適格な女性的身体という自然的身体は不要だからである。

3.政治的に不適切な身体

『薔薇王の葬列』では王位をめぐる闘争の過程で、政敵はリチャードが両性具有であるという言説を市中に広める(5)。両性の特徴を持つ身体は、王という政治的身体を憑依させるには不適切な身体だと批判される。『薔薇王の葬列』における王の身体をめぐる闘争は、特定の性的身体を排除する現代社会と重なる。

具体的な例として、軍隊組織がある。福永玄弥は、2020年に韓国陸軍で起きたトランスジェンダー女性の除隊問題と取り上げ、韓国陸軍及び徴兵制が生殖能力や機能に問題がある男性を排除し、陰茎や睾丸を持ち国民の再生産に寄与する男性を「正常な男性」とする規範を作り上げてきたこと指摘する。福永は除隊処分を受け自殺したトランス女性ピョン・ヒスが、陰茎や睾丸を欠いた男性を不適切と見なす軍の規範によって排除された例であると述べる。

大日方純夫は大日本帝国陸軍における徴兵検査が、軍事的有用性という尺度から男性の身体をランク付けする制度であったと述べている。また、佐藤文香によれば、アメリカでは女性や同性愛者を排除する徴兵制や軍隊組織に対し、女性団体やLGBT団体が軍に参加する権利を求める運動を展開してきたことを紹介している)。軍隊は軍事的有用性を持たない、あるいは秩序を乱すとされる身体を排除し、正常で画一化された身体を求めることが、日韓米の例から理解できる。

また、2018年に東京医科歯科大学などの医学部入試で、女子受験者の配点が不当に低いという問題がメディアで取り上げられた。その問題の根底に「女性は結婚や妊娠があり、職場を離れる」からと主張する関係者がいた(6)。2021年度の医学部の男女合格率は逆転している(7)。前述の関係者の言葉と2021年度の入試結果をみるに、女子受験者は学力ではなくその身体的特性によって医学部から排除されたことになる。

軍隊組織や大学医学部が特定の身体を持つ人々を「不適切」なものとみなして排除してきたように、『薔薇王の葬列』でもキリスト教的倫理に反する両性具有の身体=自然的身体は、政治的身体という統治機構を代表する存在にとって不適格とみなされている。両性具有の身体というジェンダー的要素よって政治的主権を奪われることを正当化されるのである。バッキンガムによる身体の拘束・妊娠出産の強要、政敵による両性具有者=悪魔というプロバカンダも、政治的主権者である王には両性具有者は相応しくないという主張が根底にある。トランスジェンダー女性が軍隊から排除されるように、政治的に「不適切な」身体を持つリチャードは、自身の政治的能力に基づく陰謀や狡猾さではなく、身体故に王位の正当性を問われる。


4.二人のリチャード

『薔薇王の葬列』におけるリチャードが自らの身体について葛藤するように、原作『リチャード三世』におけるリチャードもまた、身体的奇形を持ち、それ故に人々から蔑みの視線を受ける。だが、二人のリチャードはともに策謀を駆使し、優れた政治的才覚を示して王位を手に入れる。神に愛された完璧な身体を持たずとも、どんな身体を持とうが王になれることを二人は示すのだ。

何等かの能力ではなく、社会的に「正常」とみなされた身体によって職業選択や組織への参加を決定されるという状況は、軍隊組織や大学医学部だけでなく、社会の様々な場所に存在する。『薔薇王の葬列』は両性具有という特殊な身体を持つ主人公が、自身を不適切な身体とみなし排除する政治的空間に挑戦する物語だと解釈することができる。

原作と『薔薇王の葬列』は、正常な身体を持つ男性によって最適化された社会に対する挑戦者という点で似通っている。現実の社会では、性別や骨格、肌の色、あらゆる身体が規格化され、不適切な身体とみなされた人々は排除される。『薔薇王の葬列』、『リチャード三世』は、身体を規格化しようとする社会に対して行われる反抗の物語であり、トランスジェンダーや女性の身体の政治性について多くの示唆を与えている。

『リチャード三世』のリチャードは最後無残に悪として裁かれる。『薔薇王の葬列』のリチャードはまだ王位にあるが、恐らく悲惨な末路を迎えるだろう。だが、その苛烈な生涯は、現実に生きる「不適切な身体」を持つ人々の希望となりえる。私は『薔薇王の葬列』が単なる悲劇に終わることなく、自らが憎い憎いと考える身体を愛す結末を紡いでくれることを願う。

[注]

(1)菅野文,2020,『薔薇王の葬列』(14),秋田書店

(2)エルンスト・H・カント―ロヴィチ著 小林公訳,1992,『王の二つの身体 中世政治神学研究』,平凡社 p41-42

(3)同上 p27-28

(4)菅野文,2020,『薔薇王の葬列』(14),秋田書店

(5)菅野文,2019,『薔薇王の葬列』(11),秋田書店

(6)NHK,2018.8.7,『東京医大 なぜ入試で「女性差別」(時事公論)』,(2022年1月30日取得,https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/303228.html).

(7)日本経済新聞,2022.1.27,『医学部合格率、男女が逆転』,(2022年1月30日取得,https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79582090X20C22A1EA1000/?unlock=1).


[参考文献]

・ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳,1984,『リチャード三世』,白水社

・エルンスト・H・カント―ロヴィチ著 小林公訳,1992,『王の二つの身体 中世政治神学研究』,平凡社

・菅野文,2019,『薔薇王の葬列』(11),秋田書店

・菅野文,2020,『薔薇王の葬列』(14),秋田書店

・大日方純夫,2006,「「帝国軍隊」の確立と「男性」性の構造」,『ジェンダー史学』2006年2巻p21-33

・佐藤文香,2016,「軍事化される「平等」と「多様性」―米軍を手がかりとして―」,『ジェンダー史学』2016年12巻p37-50

・福永玄弥,2021.3.26,『安全な空間と不適切な身体 - 東アジアのクィア・アクティヴィズム』,出版舎ジグ jig-web連載,(2022年1月30日取得,https://jig-jig.com/serialization/fukunaga-quaia-activism/fukunaga_extra/).

・NHK,2018.8.7,『東京医大 なぜ入試で「女性差別」(時事公論)』,(2022年1月30日取得,https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/303228.html).

・日本経済新聞,2022.1.27,『医学部合格率、男女が逆転』,(2022年1月30日取得,https://www.nikkei.com/article/DGKKZO79582090X20C22A1EA1000/?unlock=1).

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