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山にむちゅう(8)

 それから数日経った。
 青田はいまだにつかまっていない。警察が言う通りであれば、痕跡は多数残っていたはずであるが、祐介には何の連絡もない。失踪しているのであれば、当然といえば当然なのかもしれない。
 
 メディアが取材に来るかもしれない、というのも杞憂に過ぎなかった。誰一人も祐介のところに取材に来る気配はなかった。会社のほうにも連絡は特にないのでほっとした。
 取材はなかったものの事件翌日の午後には少しネットニュースの地域カテゴリーのヘッドラインにも簡潔な内容だったが、流れることには流れた。聞く話によると五時台のニュースでも少しふれられたようである。
 どちらも内容は端的なもので、要約すれば、
『〇〇社の会社員男性が部下を暴行した後、失踪しました。会社員男性、青田容疑者は山に登るなどという発言を繰り返し、部下を暴行。そのまま山に向かうといい、逃走したとのことです。現在警察が行方を捜索中です。――』
という内容だ。
 祐介は自分のことがニュースで流れているのに非現実的な不思議な感覚を覚えていた。奇妙な事件であるが、些細なニュースである。むしろ、そのあとに続くニュースの方が大々的に報道されていた。 
『――警察は同様の事件の疑いの他、青田容疑者に窃盗や詐欺の疑いをかけています。本件と同様に登山に行くといい、問題を起こして失踪するケースが異常に増えており、警察はこれらの集団失踪に関して、なんらかの因果関係があるとみて関連を調査しています。最近急激な登山ブームによって登山を行う人々が多くなっている中、失踪実験も多くなっています。警視庁はこの集団失踪事件について、登山ブーム集団失踪事件とし、捜査本部を設置、情報を集めているということです。情報がある方は警察にご一報ください』
 ……祐介のことよりも、集団失踪事件の方が大きな問題になっているようだった。それにしても、『登山ブーム集団失踪事件』とは奇妙な名前だ。

 あの後、例のロッカールームに入ってみた。警察が証拠品として少しはもって行ったみたいであったが、青田のロッカーをはみ出して、多くの登山に使うであろう品物が、ぎっしりと詰め込まれていた。
 というよりは、散乱していたといったほうが正しいか。ほとんど新品同然だったが、いくつかはパッケージが開けられていて、まるで子供が開けた後にすぐに飽きてしまったかのように、包装が破られたままその辺に捨てられていた。

 青田はもしかするとここにこれらの品物を取りに帰ってくるかもしれないと、やや戦慄したが、ロッカーの中を見ている内に、衝動的に買っただけのように見えてきた。いくら何でも出鱈目な買い物だった。
 登山に行くにしても、祐介にいるビルは山とは真逆の方向である。わざわざこんなところまで取りに来るとは思えない。警察だってうろうろしているのだ。それに、詰め込んだ当人はもうすでに忘れているかもしれない。

 ただ、妙に目に付くのは水だった。
 よく見かける2Lのペットボトルというわけでもなく、18L入りのポリタンクや安酒の入っている大型のペットボトル、アウトドア用のウォータージャグ、更に旗を立てる重し、注水台というのであろうか、容器もばらばらで手当たり次第に入れたようなものに水を詰めていたようだった。
 他の品物を下敷きにして壊すほど、上から上からどんどんと投げ込んでいるようだった。よほど水が大事だったなのか、それとも、水を放り込んでいる頃には青田の気が触れてしまっていたのか、わからないが、かなり直近まで水をロッカールームにため込んでいたようである。
 登山で水、というか、水分を持っていくのはわかるが、ここまで水をため込む理由というのがよくわからない。
 大量の水の容器をロッカーに詰め込んでいるところを見ると、青田もすでに忘れているのではないか。少なくともまともな精神状態ではないので、わざわざこんなところに戻ってくる必要がないような気がしてきた。
 青田がここに戻ってくることを考えていたが、それはないだろうと祐介は直感で思っていた。
 日が経つにつれ、時が安心を読んできたのか、あるいは正常化バイアスがかかったのか、青田がここに帰ってくる気はしなくなっていた。
 それに、それが紛れていったのは時だけではない。彼に関わる女も青田への懸念を紛れさせる一因になった。彼の心をもっぱら慰撫するのはやはり、女だった。

「北村さんは、キス、すきですよね」
 祐介は一つ覚えに屋上に祥子を連れ込んで、唇の逢瀬を楽しんでいた。
 始めはいつも祥子は恥ずかしがるので、男の体で覆ってやり、頭を胸に乗せさせる。次第にうめき声を上げると、雛鳥のように不器用に唇を突き出してくるので、それを迎えるのがいつもの流れだった。祥子は由真とは違って、あまり積極的ではない。初めのうちはされるがままだ。
 屋外のせいもある。外気に触れた蕾の唇はまだぎこちなく、固い。祥子の心を開くまで時間がかかるので、いつもスローペースのキスになる。唇を触れ合わせて、頃合いを見定める必要があった。

「祥子はいやじゃないか。僕とするの」
 ふと、脳裏に青田のことを思い浮かべて、中年男と間接キスになるので嫌がるのではないかと思っていたが、祥子はなんの衒いもなく「言わなきゃダメですか」と返してきた。

「誰かに、また、変な事言われたんですか? そんなこと、気にしませんよ」
 祥子の薄い唇がちゅ、と下唇に吸いついて、上目づかいをする。見た目の通り、不安には敏い女であるのだ。祐介はなんとなく目を逸らしながら、祥子の口を覆った。

「んふ……」
 十分に唇を潤わせると、祥子のほうから唇をついばんできた。
 こうなれば祥子は夢中になってくる。
 祥子は祐介の上唇が好きだ。上から唇で挟むようについばんでくる。薄い唇は触れればしなやかに柔らかく、バラの花弁に撫でられているようにくすぐったいが、次第に乗り気になってくると、おずおずと閉ざした口を開いてくる。

 祐介はそれを感じると舌先で祥子の前歯を優しく触れる。歯列矯正した綺麗に整った歯を舌先で一本一本触れてやると、ようやく歯の隙間を開けて、狭い口腔への侵入を許してくれる。

 祐介が上の歯列を舌で押し上げると、中には下顎にうずくまる様に長い舌が侵入者を見上げていた。
 普段舌っ足らず印象がある祥子は舌が長い。舌っ足らずなのは、長い舌を狭い口腔の中でうまく使えていないのだ。
 狭い穴にみっちりと体を埋めて潜むサンショウウオのように、濡れそぼったベロア地の舌が口の中でひしめいていて、祐介の舌が侵入するとぴくぴくと全身を震わせて、こわばらせている。

 祐介は祥子の引きこもりの舌の下に自分の舌先潜り込ませると、手前へ手前へおびき寄せてやった。
 肉厚の舌は祐介の舌の上に乗っかって、のそのそと出てくるが、祐介と目が合うと途端に緊張して元の居場所に戻ってしまう
祐介は突如としてキスをやめた。

「……え、やめるの」
 焦れるようななキスをしていたにもかかわらず祥子は言った。
「祥子、舌見してよ」
 祐介は祥子に懇願すると、彼女の顔は真っ赤に染め上げられた。
「ヤ、よ」

 そういいつつも、ちろりと舌先を出してくれるので、祐介はそれを痛くしないように指先でつまんで優しく引き出す。
 祥子は徐々に抵抗をなくしていく。ずろん、と長い舌が現れる。祐介はもう片方の手も差し出して両手で触れてまじまじと観察する。
 赤面する祥子をさしおいて、祐介は自分を虜にした舌の形状や色をよく確認する。

「祥子の舌は真っ赤で、長くて。よく見ると変な模様があるね。僕あんまり人の舌見ないけど、みんなあるものなのかな」
 抵抗なく祐介に舌を触らせていたが、さすがに我慢できなくなって舌を引っ込める祥子。舌はすっかり冷たくなって、口の中に戻したとき、じんわりと麻痺したような感覚があった。

「ひろい、……ひどいです、北村さん」
 祐介は間髪を入れず祥子の口を塞いだ。
「あ、……ふ……ン……」
 祥子の冷めきった舌を熱い自分の下でゆっくりと溶かしてやる。冷たい舌はこわばっていたので、祐介はじと、と舌を合わせて、温度を移す。
 すっかりと温度が戻って解れてきた来た頃、ぴちゃ、と音を鳴らして祥子が唇を離した。祥子の呼吸は浅く、早く、息苦しそうにリズムを崩していた。

 祐介はふと、祥子の目元に隈ができていることに気が付く。そういえば普段は自分と会うときはもっと花のように笑うのに、今日はくったりとして、回している腕に体をよりかかっているように感じた。
 祐介は指で柔らかい小皺のある瞼を払うように触れると、悲し気な眸を女の黒い瞳に落とした。

「最近、疲れてる?」
「えっ」
「忙しくないでしょ、最近」
 呼吸がなかなか整わない祥子に祐介は「体調悪そうだけど」と告げた。

 妙なことがあったからか、仕事は落ち着いていた。ゴールデンウィークの手前は駆け込みで仕事が立て込むことが多かったが、今年は運がいいのか、取引先や元受けからはとやかく言われていない。手持ちの仕事で納期が急ぐ仕事が一件あったが、それもキャンセルになっていた。少なくとも、祐介の方がそのような状況だった。

 祥子の方も似たようなものだと考えていた。部署が同じなので似たような状況のはずだ。普段は会話一つしない、同僚の男どもも、あの嫌味だが仕事だけはできる主任ですらも、きたる黄金週間にどこに行こうか、雑談をしているぐらいだった。

「寝不足? それとも、男? 僕の他にできたんでしょ」
「そんなわけないですよ。北村さんじゃないんですから。私、一途なんですよ。男の人ってホントは怖いんですよ、私。許しているのはあなただけです」
 祥子はけなげに笑って見せるが、どこか空気の抜けた風船のようである。無論、祥子に男ができるはずがないと祐介は高を括って言った。本音を引き出すためのジョークだった。
 祥子にもそれは伝わっていただろう。祥子がいくら本音を話さない女だとしても、さんざん唾液を互いの口腔に移し替えて遊んだのだ。伝わらぬわけはない。

 祥子はうつむいて、頭を祐介の胸に置くと、「佐山さんにちょっといじわるされて」と、ぽつりとこぼした。
 ――女のいざこざの話か。
 祐介は祥子が胸に寄りかかる重みを感じながら、ビルの隙間に吹き付ける風に紛れるようにため息をついた。

「由真ちゃんがね」
「最近ちょっと北村さんとくっつきすぎなんじゃないかって。ちょっと寝れてないんですよ、最近」
「確かに独占欲強いからな」

 ――由真は体はともかく、アタマと性格はよいとは言えないのだ。飽くまで都合がイイだけだ。そして、この女も。
 祐介はアタマに良くない考えが浮かんできたので、頭を振って思い直した。飽くまでこうしている間だけは紳士であろうと心がけていた。
 ――でなければ、北村祐介が積み上げてきた都合のいい世界が破綻してしまう。

「……ねえ、北村さん。……佐村さんとは遊びなんですよね」
 祐介は言葉でなくキスで返した。言葉で返すことはあえてしてやらなかった。祐介も由真と似たような存在であることはアタマでは自覚していたが、やり方やセンス、いや、美学が違う。同じ粘膜を侵す者でも精神的に隔たりがある。祐介は舌を割り入れることで、哀れな女の口腔に再現した。
「北村さんもいじわるなんですね」
「祥子はなんだかいじめたくなるからな」
 今度は祥子の方から返してきた。どるんという感覚が喉の近くまでやってきた。珍しく舌を入れてきたので祐介は少し目を開いた。祥子も不安を感じているのだ。祐介は青田に、祥子は由真に、アタマを悩まされているのだ。
「……ン……フ、ン……」
 祐介はそれに応じた。粘り気のある音が屋上に響く。不安を少しでも奥に引っ込めようと、舌を突き出して絡め合った。
「祥子のは、由真ちゃんと違って、馴染みがいいな」
 しばらくして、女の思わぬ攻め口に祐介は我慢比べに負けて、祐介が祥子の蕾から舌を話すと、祥子をほめそやした。
「やっぱり、相性はいいみたいだ」
 男に誑かされていることにも気が付かず、26の処女は白い面をいよいよ耳まで真っ赤に染め上げて、うつむいた。

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