【小説】アイツとボクとチョコレート【2話】
2話 保健室の先生
【Side:ミツハ】
季節はさかのぼって、昨年の秋。
私ことミツハ・ガルテンフェルドは、新任の養護教諭としてとある私立高校にやってきた。
(ここが『あの方』のいらっしゃる場所……!)
私にはとても会いたい人がいる。もうずっと前から会いたくて会いたくて仕方がなかった。ついにそのお方のそばにやって来たんだ――そう思うと心が躍って仕方がなかった。
「……先生、ミツハ先生!」
――はっ。つい、いつもの癖でひとりの世界に入ってしまっていた。
緊張して早く来すぎた私をあたたかく迎えてくれたのは、国語担当の吉武のり香先生。ややふくよかな体型と笑顔が、人見知りの私にも安心感を与えてくれる、ベテランポジションの先生だ。
「時間に余裕がありますから、朝礼の前に保健室、案内しますね」
「ありがとうございます。吉武先生」
ひんやりと静まり返った廊下には、この時期らしい柔らかな朝陽が差し込んでいた。先生の半歩後ろを歩きながら、あちこちに視線を向ける。どうやらこの学び舎は、なかなかに年季が入っているようだ。
(……なんだか、故郷みたいで落ち着くかも)
「それにしても、ごめんなさいねぇ。前の先生、急にヨーロッパへ
留学することになっちゃったのよ」
「いえ、とんでもないです。私も職を探してたので助かりました」
「そう言ってもらえると助かるわぁ」
私はちょっとだけ迷ってから、思い切って言ってみる。
「なんだか交換留学みたいですよね」
すると吉武先生は丸みをおびた背中をぴくっと上下させて、私を振り向き見上げた。
「まぁ! うふふふ。生徒だったら、本当にねぇ」
金の髪に、青の瞳。アジア人の平均よりはずっと高い身長。そしてカタカナ表記の名前。ここでは私は『日本とドイツのミックス』ということになっている。
(……とでも言っておかないと、違和感があるからなあ)
とはいえ人の好さそうな吉武先生に嘘をついているという事実は、私の心の奥に小さなひっかき傷をつくる。
(でも迷惑をかけてるわけじゃないし……。
それよりも私には、絶対に成し遂げたいことがあるんだから!)
**
緑薫る森の中、私はいつものように湖に浮かびながら、しかしいくばくかの名残惜しさを感じつつ、小鳥たちの美しいさえずりに耳を傾けていた。
そんな時どこからともなく、お父さまの声が聞こえてくる。
「本当に行くのだな」
「……はい。恩返しをしたい人がいるんです」
「そうか……。ではこれを持っていきなさい」
小さいけれど、ずっしりとした布製の袋。それから――拳銃が一丁。
「使い方はわかっているな?」
私は返事をする代わりに、小さく水面を打って、水しぶきを上げた。
**
『保健室』。
これまた年代もののプレートが壁からにょっきりと突き出している。
「こちらが先生の職場です。
鍵が古いから開けにくくてゴメンナサイなんだけど、
とにかく1回開けてみせますから、よくご覧になってくださいね」
鈍い金色とも銅色ともつかない、太い針金が捻じ曲げられたような形状の鍵。これが古いものなのか新しいものなのか、ここで生まれ育ったわけではない私には、正直よくわからない。ただ開け方が難解なのは、吉武先生の手つきからも明らかだった。
「……ふぅ。でもここまで来たらあと一歩!」
先生がそう言った直後、ガチャリといい音がした。
「やったぁ! ……あ」
思わず手を叩きそうになって、そのまま口に持っていく。
「ふふふ。もしかしたら、これがうちの保健室の一番の大仕事かもね?」
吉武先生は私の無礼を笑い飛ばして、白いペンキが塗られた扉に手を掛ける。
――ガッ。ガタガタガタ。
どうしたことだろうか。爪が真っ白になるまで吉武先生が力を込めても、扉はびくともしなかった。
「変ねぇ。確かに鍵は開いたはずなのに」
「何か引っかかっているのかもしれませんね。代わりますよ、先生」
「それじゃあ、ちょっとお願い」
吉武先生に代わってペンキのあちこち剥げた引き戸の前に立ち、先生と同じように、四角い溝に指を引っ掛ける。そして思いの限り力を込めると――
ガァン!!!
想像以上の勢いで扉がレールの上を滑り、勢いづいて壁に突撃する。
「ひいっ!」
耳を押さえて後ずさる吉武先生。謝りながら駆け寄る私。
その狂騒状態に、不意に加わった存在があった。
予告なく耳に届いた、凛とした『声』。
「せっかく内鍵かけて朝の時間を満喫してたのに、ぶっ壊すなんて……
なにその怪力」
声の主は保健室の中にいた。
窓辺に座る姿は、逆光でシルエットしか見えない。
でもそれが誰であるかを識別することに支障は微塵もなかった。
「……さま」
「は?」
「ベル様……!」
朝陽に神々しく浮かび上がるセーラー服の輪郭。そこに向かって真っすぐに歩み始める。
(こんなに早くお会いできるなんて! 運命の導きってあるんだ!)
1歩、2歩、3歩、4……歩…………?
(あれ、どうしたんだろう? ……視界が暗く……傾いて…………)
――どさり。
「ちょっ……」
頬には冷たい木の感触。
うっすらと残った視界に見える白いものは……上履きだろうか?
「ミツハ先生、ミツハ先生しっかり!
鈴野さん、ベッドに運ぶの手伝って!
ぼんやりしてないで、早く!」
それから掛け声のようなものが聞こえて、ふっと体が軽くなる。
(この匂い……間違いない……)
とさりと降ろされた心地よい何かの上で、なけなしの私の意識はとろとろと溶けていった。
(心配は無用ですよ、お父さま。
ミツハはさっそくお会いできました。……恩人の、ベル様の末裔に!)
こうして私は、初仕事の朝を保健室で過ごすことになった。いや、元々その予定ではあったのだが――完全に別の意味で。
「べ……る……」
そんな自分を冷ややかな目が見下ろしていることに、その時の私は気づくはずもなかった。
>>3話につづく
この小説は『創作大賞2023』イラストストーリー部門の応募作です。
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