人が宝 今の職業を選ぶきっかけとなった数々の挫折と出会いの連鎖から生まれた新しい価値観
わたしが応援する会社というお題をきっかけに自己紹介と今の職を選んだ理由をつらつらと書き綴ってゆきたいと思います(長文・乱文すみませんm(_ _)m半生なのでとんでもなく長いです)
わたしが応援する会社
それは今まで私が働いてきた会社
そこにはたくさんの学びと愛と魅力的な人達で溢れていました
先ずは
約8年間働いた地元の工場
高校卒業直後からお世話になった工場。友達の親や知り合いのいる職場だったこともあって守られている実感もあり、誕生日や成人式のお祝い、残業時の差し入れ等本当に良くしてもらいました…感謝m(_ _)m✨
忙しい時は残業や休日出勤等嫌なこともあっりましたが、ながく続けられたのは愛を感じられる職場で支えてくれた人達がいたからだと思います
ルアーの着色の仕事をしていました
雑誌撮影用のものを任せていただいたり、新色や種類も豊富で、とてもやりがいのある楽しいお仕事でした
しかし一時間平均の数字が出る仕事なので指定通りに正確に平均個数以上を目指して頑張っていました
初めて失敗した話
一年目のちょっと仕事に慣れた頃でした…
まだ下塗りとか真っ直ぐ塗るような簡単な所しか出来なかったのでライン作業で流してもらい、カラーによって色々な工程に入れてもらい先輩達に教えてもらいながら技術を学ばせていただいていました
工程手順のノートを見て塗料や見本などの必要なものを準備して流していくのですが、新人はだいたい一番最初の下地に配置されます。カラーもだいたい白とパールもしくはマジョーラか蛍光塗料の全体塗りが担当になります。
見本を見たらだいたいどの色を使っているかもわかるようになってきていて、私の当たるところは前にもやったことのある工程だったので、ささーっと塗料や道具を準備して一通り仕上げて上司に確認をもらって始めたのですが…
『簡単だから下地いっぱいつくっておかないと追われる…手伝ってもらわなくてもいいように早く塗ろう❗』と慌ててノートを見ずに始めてしまいました📔
パールは何種類もあって粒の大きさが違います。だいたいは粒の細かいパール100しか使いません。しかし、その時のカラーはちょっと粗めのパール111を使っていたのです…
後の工程の先輩が私のミスに気付いてくれて、こっそり教えに来てくれました
『ヤバい!ヤバい!ヤバい!!』一人では抱えきれずすぐに隣の先輩に相談し、確認してもらった上司に連絡、相談
上司『俺も分からんかったなぁ〜💦あんまり変わらんしこれでもいいかプロに聞いてくるわ!』
そわそわソワソワザワザワ
結果わざと変えたとのことで塗り直しになりました😢
不幸中の幸いだったのは透ける位薄い色だったのとサイズが小さかったこと、拭けばどうにかなったこと
しかし…張り切ってたくさん下地を作ってしまっていました…隣の先輩も前の仕事が終わり拭くのを手伝うはめに…
私『すみません😢⤵️⤵️』
先輩『あぁ~あ、遂にやってもぉたなぁ~。まぁそういう時もあるわ。皆あるねん。直せるやつで良かったやん。』
いつもからかったり苛めてくる先輩の突然の優しさにジィーン😢♥️としているところに部長が来て
部長『どうしたんや❓』
と聞かれ
私『すみません😣💦⤵️ノート見るのを忘れていました』
と謝ったら隣の先輩が
先輩『いっつもちゃーんと見とるのになぁ。私もちゃんと見てあげれてませんでした。すみません。』
と言ってくれたのがものすごく嬉しく、申し訳なくなり涙😢💕
部長『そうか、次から気ぃ付けなあかんなぁ。』
工程もぐちゃぐちゃになってしまい皆に平謝りしながら手伝ってもらい…休憩をおして手伝っていただき…いつもよりお喋りも少な目で…私の失敗を皆でなかったことにしてくれました
初めての大失敗で凍りつき震えましたが🐧
皆に励ましてもらい😢助けてもらい😢先輩の優しさ♥️ちゃんと見ていてくれていることを知り😢助けてくれた😢頑張ろう💪私も後輩ができたらそんな風に優しく接しよう…と思ったのでした
『失敗したときは怒られるよりも優しくされる方が本当に改善したいと思ったり反省できる(学び)』
入ったばかりの頃は仕事に対する情熱が熱すぎて色々あったのですが、年々出来る事やいろんな方から誉めてもらえる事が増え、次第に余裕がでてきて、冷静にサポートも出来るようになってきたような7年目のこと
東日本大震災で大きなショックを受けました
信じられない映像ばかり、悲劇の連鎖に言葉を失いました
『いつ何が起こって死ぬか分からない。やりたいことをやろう。会社辞めよう。』となんとなく決意しました。
しかし、春から秋まではルアーの仕事は物凄く忙しいです。
『一応職人だし辞めるなら冬だなぁ。辞めるなら本当にやりたいことを見つけてちゃんと皆に話せる様にしたい。』
本当にやりたいことを探したりユーキャンで行政書士の資格をとろうとしたりかなり彷徨いました。そして遂に
ワーキングホリデーという制度
を見つけました
それまで一度も海外に行ったことのない私にとって海外で生活、暮らすことへの強い憧れがありました
『30歳まで!今なら行ける!働けるし時給も良い!一年間ワーキングホリデーに行ってから仕事を見つけたら良いじゃん❗』
そう思ったのが6月か7月のめちゃくちゃ忙しい時期でした
だいたい毎日残業3時間プラス土曜日出勤。
塗装課は私を含め残業も休日出勤もしたくない人達の集まりだったので、ガンガン仕上げて前の仕事が追い付かないようにして帰れるように頑張っていました。(会社の為にもそれが良いと思っていました)
『さぁ仕事が途切れたぞぉ~今日は残業一時間で帰れるー\(^-^)/』とエアーブラシを洗っていた時でした
『水検査できるよね?残って!』と係長にとめられました
えっ👀⁉️私だけ帰れない(´;ω;`)
先輩達も可哀想だと抗議してくれたけれど…
帰っちゃうんですね(´;ω;`)
私だけ残業…しかも違う仕事で…
不満
とんでもない量の納期と注文で7年間の中で一番忙しい時期でした。時間あたりの個数は決まっていましたが、仕上がりには人一倍拘っていて、休憩を5分きりあげたり片付けのタイミングを遅らせて納得のいくものを時間内にと頑張っていました。
しかしある日
『仕事も早いし綺麗に仕上げてくれて素晴らしいと思ってるんやけど、そこそこでいいからもっとたくさん塗ってくれた方が助かるねん』
と言われたのが辞表を提出する最大のきっかけになりました。
今なら分かるんですけど、当時は頑張りが否定されたような気がして一気にやる気をなくしたのです
『そこそこ』は私の一番嫌いなことばかもしれません
塗装課も忙しいのに私だけ違う部署の手伝いに行かされたり、残業で友達とご飯にも行けなかったり、ワーキングホリデーの事も真剣に考え出して…
12月末で辞めようと思っていたのですが、一足早く先輩も12月末で辞めると辞表を出していたのが発覚😨ガーン
引き継ぎもあるので3月末に辞めることにしました。
辞める4ヶ月前にこっそり辞表を出し『直前まで誰にも言わないでください』と言いました。
それからすぐに新入社員二人が塗装課へ異動となり、初めて年下の後輩ができました!
まっすぐな可愛い後輩で色々出来るようになって欲しいという想いと、成長を見届けることができないまま辞めるのが無責任な気がしたりして…なんだか申し訳なく、辞めることを後悔したりもしましたが
『自分の持っているもの全部出して、出来ることが増える喜びや、仕事の魅力も引き継ぎたい。きちんと仕事を教えることがきっと為になるはず』
後輩の努力と実力あって下地はほぼ完璧になり細い線や小さな点の練習が始まった頃
辞めることを伝えなければならない時がやってきました。
と、ここで途中ではありますが色々飛ばして
オーストラリア編へ
はじめての海外、もちろんはじめての国際線、はじめてのワーキングホリデー、英語話せない、誰一人知り合いも頼れる人も居ないオーストラリアへ一人旅
今考えると『よくあの状態で行ったよ!カッコイイよ!有難う当時の自分!』と褒め称えたくなるのですが
本当に無謀な挑戦で無事生きて日本に帰ってこれたのはラッキーとしか…たくさんの奇跡と素晴らしい出会いの賜物です🎁✨
『何も知らないから、知りたい学びたいと思い何も出来ないから、なんとかしたい出来るようになりたいと思えたわけで、いっぱい失敗して周りを心配させて、声かけてもらって助けてもらえた、あの時行っておいて良かった。あの時じゃなかったら出会えなかった奇跡の出会いに心から感謝』
オーストラリアでの初めての職場は日本食レストランでした
3ヶ月間語学学校には通ったものの片言の外国人
パソコンも出来ない私を見かねて先生が作ってくれたresumeを何枚か持って日本食レストランへいざ突撃!
ビギナーズラックでトライアルを受けられバイトゲット!
接客で挫折
電話で挫折
店が混む恐怖
飲食業辛い(´;ω;`)電話怖い(´;ω;`)私ってこんなに出来ないやつだったんだ…とガッカリ😭💨💨
働いていた人達もオーナーもお客様も皆とってもいい人達で、こんなに出来ないやつに優しくしてくれて、助けてくれて、普通に頼まれたものを笑顔で持って行っただけでめちゃくちゃ誉めてくれたり、綺麗に真ん中に具がきてるねとか小さいことも大袈裟に誉めてくれたり😢さらに仕事中にドリンクの差し入れ、バレンタインにチョコレートケーキを貰ったり(飲みながら食べながら仕事)等日本との違いも学べました。
『お店はこうあるべき!というのは間違っているのかもしれない。従業員が楽しく働いてこそお客様に良いサービスが出来る。お客様のサービスに対するレスポンスもモチベーションが上がり大変勉強になりました』
それに賄いが最高に美味しく心の支えでした😋最終残った巻き寿司も貰えるし😋
何よりこんな使えないやつを3ヶ月も雇ってくださって感謝しかない。なぜクビにしなかったのか⁉️後から入った人にも頼ってばかりで💦申し訳なさでいっぱいいっぱい自分の出来なさ加減にとうとう耐えられなくなり逃げ腰で色々探して見つけたのが
西オーストラリアBroomeで真珠の養殖をする仕事でした
なんでも時給がよくて一週間で10万円以上稼げるらしい…しかも女子はそんなに体力要らない仕事にまわしてもらえるらしい…そんな情報だけでフライアウェイ✈️
ありがとうヌーサ✨こんにちはブルーム✨
月への階段と就職難
ブルームに着いてすぐ真珠のところへメールを送ってresume持って職探しに出掛けました。真珠の養殖が儲かる情報が出回っていたようで同じ様に職を探す人達でいっぱい。40件以上突撃訪問して配ったけれど片言の日本人にチャンスは訪れなかった。
さらに真珠の養殖の会社から『今50人待ちで今期は諦めた方がいいよ』的なメールを受け取る😨ブルームの時給はだいたい20$以上で店によっては休日は倍の40$以上になるのです💰
誰からも求められていない片言の日本人はまた挫折した
でもこのまま帰るのは嫌だー‼️
そんな時に起こったシェアハウスでの想像を絶する冷蔵庫事件(割愛)
その事件の時に知り合った日本人の友達に『一緒にWwoofer しない?3ヶ月頑張ったら2年目のVISAとれるよ』と誘ってもらった
農業?ないない(ヾノ・∀・`)私虫嫌いだもん🐛農業って外で仕事するんでしょう❓こここんなに暑いのに外で仕事なんかしたら死んじゃうよ☠️皮膚癌になるよ❗
と最初は断りました
そして追い詰められた私は最後の望みをかけてネイルサロンに行きました❗でも塗ってみてと言われて久しぶりにマニキュアを握る手は緊張で震え…敢えなく撃沈(´д`|||)
終わった…このままワーホリ終わるんや…やっぱり嫌やぁ~💦このまま帰りたくない❗なんならもう一年居たい❗VISA…2年目のVISA欲しい…
Wwoofer の件、やっぱり教えてくださいm(_ _)mと友人にLINEしました
『Wwoofの本がいるよ!私持ってるけどVISAの申請するなら一人一冊要るっぽい。』
二人でWwoofの本を買いにケーブルビーチまで自転車で40分くらい漕ぎました
帰りに見たサンセットはめちゃくちゃ綺麗でした
VISAの残り3ヶ月に余裕をもって友達より一週間先にファームへ行くことになりました
農業との出会いと価値観の変化
VISAの為に嫌々始めたWwoofer
農場は約1900ヘクタール
馬、牛、鶏、果樹、野菜等の世話や乗馬、宿泊施設やレストラン、散水設備の管理、修理、保守、工事、建物の建設から樹木の伐採、草刈り機の操作、溶接など様々な仕事をビジネスマネージャーをしていたHansから教わりました
また、仕事や人生の楽しみ方についても
特に印象に残っているのは仕事中にHansが言った『やりたくないことはやりたくないと言いなさい。』という言葉です
当時の私は典型的なNOと言えない日本人で言われた仕事はすべてしていました
仕事を断るという発想もなく、仕事を与える側のHansからそんなことを言われるなんて🤔とちょっとビックリでした
『君がすべてやる必要はないし、他の人にも頼むことはできるんだよ、僕は君に教えるのが楽しいけれど、無理に付き合う必要はないんだよ君も楽しいと思っていてくれたら良いんだけれど・・・』と付け加えて
本当はそんなに楽しくない仕事でしたし、皆が休憩している時間に自分だけお手伝いしないといけないのは正直嫌でしたが、その場はとりあえず『私も色々できるようになって楽しい。』言っておきました
その後断ることを覚えた私は色々断りました(笑)
皆が防火帯を作っているときものんびりお菓子作りをさせてもらったり
アボリジニの絵の具とかも貸してくれ絵を描く時間だったりバオバブの実を削って作るランプシェード作り、サンセットライド等々仕事として良いのか分からないようなことも何でも🆗してくれました
Hansはいつも楽しそうに仕事をしていて、ことあるごとに『ここは本当に素晴らしいところだろう?僕もやっと見つけたんだよ。』と満面の笑顔で農場の自慢をしていました
口癖は『人生を楽しみなさい』
私が以前日本のルアー工場で働いていて、オーストラリアのルアー工場と連絡をとっていて、もしかしたらそこで働けるかもしれない‼️という話をした時も『どうして辞めた仕事をまたするの?』というとても考えさせられる質問が返ってきて
色々考え結局行くのをやめました(車を買わないといけなかったし)
ここに残らないか?とも言ってもらえましたがその時は農業はもうたくさんって思っていましたのでお断りして一時帰国
そこでしか出来ない経験をさせてもらったことや色んな事が出来るようになったことで自分に自信がついた
いつでも帰っておいでといってくれる場所ができて何でも挑戦できるようになった
どうやって作ったかわかるもの
生産者のわかるものを食べる豊かさ
自分が作ったものを美味しいと食べてもらえる喜びややりがい
そんなオーストラリアでの経験や新しい価値観を持って日本に帰った私は事務職に就き生きづらさを感じる
農業をして健康的に暮らしていたWWOOFerとしての生活が一番楽しかったなぁ
と思い返す日々
そんな時、オーストラリアの農場で一緒に働いていたフランス人の女の子が日本に来ることになり、数日間一緒に奈良、京都、大阪を旅しました
しかし、ほとんど日本らしいことを体験してもらえなかったことや、日本の魅力を伝えられなかったことが心残りでした
日本らしいところ・・・
自然の美しい魅力的なところ・・・
探していて見つかったのが今住んでいるところです
私もHansのように楽園を見つけて誰かに自慢したいHansのように自信をもって今が楽しいといえる人間になりたい
農家になりWWOOFのホストをして日本の魅力や農業の多面的な価値をたくさんの人に伝えたい
自然豊かで美しく日本の良さを感じられるここならばできる!ここが私の楽園になるかもしれない!
と感じ移住してもうすぐ4年になります
道半ばですが
研修を終えて昨年6月から新規就農しました
いつか自信をもって今が一番楽しいと言えるように
全力を注げる毎年一年生の農業という仕事で
自然や環境に感謝しながら
伝統や文化、景観を守り
安全で美味しい野菜を作り
大切な人達に食べてもらう
畑できれいな水づくりおいしい空気もつくる
出来ることは自分でし
繋がりのある、生産者のわかるものを買う
お金はなくても健康で豊かで幸せな暮らしができることを伝えたい
いつでも帰っておいでといってあげられる場所を作りたい
そんな風に私を変えてくれた人達や会社に感謝しながら
みんなが楽しく安心して暮らせる未来のために使わせていただきますm(_ _)m