#3 なぜオートバイなのか⓶動的瞑想への誘い
バイクは、ただの移動手段ではない。それは人生のセラピストであり、心を癒す不思議な存在だ。これを聞いて、最初は首をかしげるかもしれない。エンジン音や風切る音が心を癒すなんて、ロマンチストの戯言に思えるだろう。しかし、実際にバイクに跨ったことのある人なら、その効力を否応なしに実感している。バイクは我々の心を穏やかにし、再び立ち上がる力をくれる。そしてその秘密を紐解くと、科学と心理学が静かに寄り添っているのがわかる。
バイクの操作は、極めて集中を要する行為だ。アクセルをひねり、ブレーキを握り、あるいは踏み、シフトを調整する。弧に身を預け、風の音に耳を澄ませる。視界の隅に映る赤い光や、後方に迫る車の影に神経を尖らせる。これらの全てが、一瞬の気の緩みも許さない。その結果、我々は知らず知らずのうちに「今ここ」に意識を集中させることになる。
集中が極まった時、全てが見えていて、全てが感じられて、無意識のうちに連続する弧を次々といなしている時がある。人間のすることである以上、自分の意志がすべてを決定し、脳が指令を出してオートバイを操作するはずなのだが、何かが勝手に、しかし確実に弧を切り取ってるような感覚に陥る時がある。
心理学では、この集中状態を"フロー"と呼ぶ。時間が溶けていき、過去や未来の雑念が消え去る瞬間だ。フロー状態に入ると、私たちの脳はエンドルフィンを放出し、幸福感と満足感に包まれる。エンジンのリズムが心臓の鼓動とシンクロし、まるで機械と人間が一つに溶け合ったかのような感覚をもたらす。このような状態で、人は自然とストレスから解放される。
実際とある研究によると、バイクに乗ることはストレスホルモンであるコルチゾールを減少させる効果があるという。さらに、身体全体を使う活動は筋肉の緊張をほぐし、血流を促進する。結果として、心身がリラックスし、穏やかな気持ちを取り戻せるのだ。これは、ジムで汗を流した後の爽快感に似ているが、バイクを操る事で得られるエクスタシーはそんなものではとても収まらない。
バイクを操る行為は、いわば「動的瞑想」とも言える。手足を使った操作だけでなく、身体全体をバランス良く動かし、五感をフル活用する。極度の集中時にはこの一連の動作は、半ば自動的に行われるような感覚に至る。自分はバイクなのか、バイクが自分なのか、そんな境界線さえ飛び越えていくような感覚。
そんな刹那刹那のフィルターを潜り抜け、ふと一息入れた時、忙しい日常の中で見失いがちな"自分"を取り戻せたような感覚。まるで老練なセラピストのような、人を芯から癒す力はバイクの持つ力の一つだろうなと僕は確信する。