金子 堅太郎
生没年月日
1853年(嘉永6年)3月13日 ー 1942年(昭和17年)5月16日
出身地
筑前国早良郡鳥飼村 (現:福岡県福岡市中央区鳥飼)
学歴
藩校修猷館
ライス・グラマー・スクール
イングリッシュ・ハイスクール
ハーバード大学ロースクール
年表
1853年(嘉永6年)3月13日
福岡藩士で福岡藩勘定方附を務める金子家に生まれる。
1863年(文久3年)1月
藩校修猷館 入学
1868年(慶応4年)4月
家督相続
福岡藩銃手組に配属
1870年(明治3年)7月
東京遊学
1872年(明治5年)9月
アメリカのライス・グラマー・スクール4年次編入学
1874年(明治7年)7月
ライス・グラマー・スクール卒業
卒業生総代
1874年(明治7年)9月
イングリッシュ・ハイスクールに入学
1876年(明治9年)2月
イングリッシュ・ハイスクールを中退。
ヘンリー・スイフト&ラスル・クレイ共同法律事務所の書生として法律を学ぶ。
1876年(明治9年)10月
ハーバード大学 入学
1878年(明治11年)6月
ハーバード大学ロースクール修了
1878年(明治11年)9月
慶應義塾夜間法律科講師
1878年(明治11年)12月
東京大学予備門英語講師
1880年(明治13年)4月
元老院少書記官
1882年(明治15年)12月
元老院総理秘書官
1884年(明治17年)4月
太政官大書記官 兼 元老院権大書記官 兼 制度取調局御用掛 兼 制度取調局長官秘書官
1885年(明治18年)2月
元老院大書記官
1885年(明治18年)12月
伊藤博文内閣総理大臣秘書官
1888年(明治21年)4月
枢密院書記官 兼 伊藤博文枢密院議長秘書官
1890年(明治23年)5月
貴族院書記官長 (~1894年1月)
日本法律学校校長(現:学校法人日本大学)
1890年(明治23年)9月
貴族院勅選議員 (~1891年11月)
1894年(明治27年)1月
農商務次官
1894年(明治27年)4月
貴族院勅選議員 (~1906年1月)
1898年(明治31年)4月
第3次伊藤博文内閣・農商務大臣 (~1898年6月)
1899年(明治32年)7月
東京株式取引所(現:株式会社東京証券取引所)理事長
1900年(明治33年)5月
男爵
1900年(明治33年)10月
第4次伊藤博文内閣・司法大臣 (~1901年6月)
米友協会会長
1901年(明治34年)
東京市会議員選挙に出馬し当選。
東京市会議員 (不明)
東京市会議長 (~1902年)
1906年(明治39年)
大日本織物協会会頭
1906年(明治39年)1月
枢密顧問官 (~1942年5月)
1907年(明治40年)9月
子爵
日本大博覧会会長
日本速記会(現:公益社団法人日本速記協会)会長
1908年(明治41年)
語学協会総裁
東京大博覧会会長
1909年(明治42年)
大日本窯業協会(現:公益社団法人日本セラミックス協会)会頭
1914年(大正3年)
維新史料編纂会副総裁
1915年(大正4年)2月
明治天皇紀編纂局総裁
1915年(大正4年)7月
臨時編修局副総裁
1915年(大正4年)10月
維新史料編纂会総裁
1917年(大正6年)5月
社団法人日米協会(現:一般社団法人日米協会)会長
1922年(大正11年)4月
帝室編修局総裁
1929年(昭和4年)
財団法人日本美術協会(現:公益財団法人日本美術協会)会頭
1932年(昭和7年)
財団法人二松學舍(現:学校法人二松學舍)舎長
1934年(昭和9年)1月
伯爵
1938年(昭和13年)
日米同志会会長
1942年(昭和17年)5月16日
腎盂膀胱炎の悪化により神奈川県三浦郡葉山町の別邸にて枢密顧問官他各種団体会長在職中のまま死去。
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