上原 勇作
生没年月日
1856年(安政3年)12月6日 ー 1933年(昭和8年)11月8日
出身地
日向国都城 (現:宮崎県都城市)
学歴
藩校造士館
大学南校 中退
陸軍幼年学校
陸軍士官学校(旧第3期)
フォンテンブロー砲工学校 (現:サン・シール陸軍士官学校) 留学
年表
1856年(安政3年)12月6日
薩摩藩の支藩である都城藩家老の龍岡家に生まれる。
幼名は「資長」
1869年(明治2年)7月
薩摩藩校造士館で学ぶ。
1873年(明治6年)6月
大学南校 入学
1875年(明治8年)
上原家の養子となり、「上原勇作」に改名。
1875年(明治8年)6月
陸軍幼年学校 編入学
1879年(明治12年)12月
陸軍工兵少尉 任官
1880年(明治13年)12月
陸軍士官学校(旧第3期) 卒業
1882年(明治15年)8月
フランスのフォンテンブロー砲工学校に留学
1882年(明治15年)9月
陸軍中尉
1885年(明治18年)6月
陸軍大尉
1886年(明治19年)2月
陸軍士官学校教官
1890年(明治23年)5月
陸軍少佐
1890年(明治23年)10月
陸軍第5師団工兵第5大隊長
1892年(明治25年)8月
参謀本部長有栖川宮熾仁親王陸軍大将副官 兼 陸軍大学校教官
1894年(明治27年)6月
李氏朝鮮駐箚日本国公使館付駐在武官心得
1894年(明治27年)8月
日清戦争陸軍第1軍参謀
1894年(明治27年)9月
陸軍中佐
1895年(明治28年)3月
日清戦争陸軍第1軍参謀副長
1896年(明治29年)5月
陸軍参謀本部第4部長
1897年(明治30年)10月
陸軍大佐
1899年(明治32年)1月
陸軍参謀本部第3部長 兼 陸軍参謀本部第5部長
1899年(明治32年)4月
ハーグ平和会議日本国政府全権代表随員
1900年(明治33年)7月
陸軍少将
陸軍砲工学校長 (~1901年7月)
1901年(明治34年)7月
工兵監 (~1904年6月)
1904年(明治37年)6月
日露戦争陸軍第4軍参謀長
1906年(明治39年)2月
工兵監 (~1908年12月)
1906年(明治39年)7月
陸軍中将
1907年(明治40年)9月
男爵
1908年(明治41年)12月
陸軍第7師団長
1911年(明治44年)9月
陸軍第14師団長
1912年(明治45年)4月
第2次西園寺公望内閣・陸軍大臣 (~1912年12月)
1913年(大正2年)3月
陸軍第3師団長
1914年(大正3年)4月
陸軍教育総監 (~1914年12月)
1915年(大正4年)2月
陸軍大将
軍事参議官 (~1915年12月)
1915年(大正4年)12月
陸軍参謀総長 (~1923年3月)
1921年(大正10年)4月
子爵
元帥陸軍大将
1924年(大正13年)5月
内閣賞勲局議定官
1926年(大正15年)5月
偕行社(現:公益財団法人偕行社)会長
1933年(昭和8年)11月8日
胃潰瘍に伴う心臓発作により東京府東京市品川区大井鹿島町(現:東京都品川区大井6丁目)の自宅にて死去。