芳川 顕正
生没年月日
1842年(天保13年)1月21日 ー 1920年(大正9年)1月10日
出身地
阿波国麻植郡山川町 (現:徳島県吉野川市)
学歴
長崎養生所
年表
1842年(天保13年)1月21日
町医者を営む原田家に生まれる。
幼名は「賢吉」
1863年(文久3年)
名東郡徳島町で医師を営む高橋家の養子となる。
1864年(文久4年)
長崎の医学塾である中村塾で塾頭となる。
1865年(慶応元年)
長崎養生所で医学修行
1867年(慶応3年)
一時徳島帰藩後に再度、長崎養生所で学ぶ。
その後、薩摩藩海軍所で翻訳官となったのち、徳島藩洋学教授となる。
1868年(慶応4年)
「芳川顕正」に改名する。
1870年(明治3年)10月
大蔵省 入省
1872年(明治5年)6月
紙幣頭
1874年(明治7年)1月
工部大書記官
1874年(明治7年)8月
電信頭
1877年(明治10年)1月
逓信省電信局長 兼 逓信省書記局長
1882年(明治15年)7月
第8代東京府知事 (~1885年6月)
1885年(明治18年)
日本薬局方編纂総裁
1885年(明治18年)6月
内務大輔
1885年(明治18年)7月
中央衛生会会長
1887年(明治20年)3月
内務次官
1888年(明治21年)9月
東京市区改正委員長
1890年(明治23年)5月
第1次山縣有朋内閣・文部大臣 (~1891年5月)
1891年(明治24年)4月
宮中顧問官
1892年(明治25年)
宮内省帝室会計審査局長 兼 宮内省内蔵頭
1893年(明治26年)3月
第2次伊藤博文内閣・司法大臣 (~1896年9月)
1894年(明治27年)8月
文部大臣臨時代理 兼任 (~1894年10月)
1896年(明治29年)2月
内務大臣 兼任 (~1896年4月)
1896年(明治29年)6月
子爵
1896年(明治29年)9月
第2次松方正義内閣・司法大臣 (~1896年9月)
1898年(明治31年)1月
第3次伊藤博文内閣・内務大臣 (~1898年6月)
1898年(明治31年)11月
第2次山縣有朋内閣・逓信大臣 (~1900年10月)
1900年(明治33年)11月
貴族院子爵議員 (~1907年9月)
以降、貴族院資格審査委員長、貴族院請願委員長など歴任。
1901年(明治34年)6月
第1次桂太郎内閣・逓信大臣 (~1903年7月)
1904年(明治37年)2月
第1次桂太郎内閣・内務大臣 (~1905年9月)
1907年(明治40年)
日本花柳病予防協会(現:公益財団法人性の健康医学財団)会長
1907年(明治40年)9月
伯爵
1910年(明治43年)2月
枢密顧問官 (~1912年1月)
1910年(明治43年)3月
皇典講究所所長 兼 旧制國學院大學学長
1912年(明治45年)1月
枢密院副議長 (~1917年3月)
1913年(大正2年)
日本結核予防協会(現:公益財団法人結核予防会)会頭
1915年(大正4年)
南洋協会(現:一般財団法人アジア・南洋協会)会頭
1919年(大正8年)3月
枢密顧問官 (~1920年1月)
1920年(大正9年)1月10日
腎盂炎により東京府東京市の自宅にて枢密顧問官他各種団体会長在職中のまま死去。