ものを書くということ
物心ついた頃、初めての将来の夢は絵本作家だった。
やがてマンガを読むようになると、マンガ家になりたいと思った。
中学生になると今度は小説家がいいと思った。
そして、高校生になる頃には、物書きで食べていくのは難しいと現実を見るようになってきた。
漫画でも小説でも、売れる作品は時流に乗ったものだ。
勿論、作者の才能やセンス、努力も大切だけど、良い作品であれば売れるとは限らない。
売れるものは、世の中の多くの人が求めているものを与えてくれるもので、見ていて気持ちのいいものだ。
作品には作者の人生観や社会へのメッセージが込められているものだが、自分が向き合わなければいけない課題を突きつけてくるような作品を人々は歓迎しない。
フィクションから何かを学びとろうとする人は少なく、大抵は娯楽として消費して欲求を充足させるだけだ。
フィクションは世相を反映している。
受け手が成熟して精神性の高い作品を求めるようにならなければ、良い作品は出回らない。
だから、世紀の天才でもなければ、物書きは社会に迎合して商業主義に走り、書きたいものではなく求められるものを書くようになるのだ。
ずっと物語を書きたいと思っていた。
どんな世界観でどんな登場人物が、どんな展開を経てどんなエンディングを迎えるのか。
自分の人生経験をどう作品に昇華させて、何を伝えようとするのか。
しかし、最近は少し考えが変わってきた。
物語を書くというより、人生がそのまま物語になるように生きたいと思う。
人は自分が経験していないことは語り得ない。
まず、何かを語れるほどのものが自分の中にあるのか。
それを誰かの言葉を借りるのではなく、自分の言葉で語ることができるか。
また、ともすると物書きは、想像の世界で自由に冒険するわりには、実際に自分で世界を見に行こうとはせず部屋に引き籠ってしまいがちだ。
自分の好きなことを仕事にして、しかも、社会的に価値のある知的な生産活動を生業にできるなら、それはとても素敵なことで憧れる。
でも、それと同時に、やっぱり人間はそれだけではいけないんじゃないか、それでは生活が味気ないものになってしまうとも思う。
自分の体を動かして、他者と交わって、もっと身体的に、もっと実在的に生きなければならないと思う。
それで、「旅」というものに焦点を当ててみる。
自分の足で世界各地を渡り歩き、頭を使う仕事も体を使う仕事も、接客も事務も何でもやってみて、その過程で様々な人と出会い関わり合う。
そうした人生の中の一つ一つの経験をエピソードに仕立て上げ、その多種多様なエピソードを一冊の本に収録する。
それぞれはてんでバラバラなお話だけど、全体を俯瞰して視たときに一つの世界観が浮かび上がってくる。
そんなものが書けたら面白いんじゃないか。
それが小説になるのか、エッセイになるのか、はたまた詩集になるのかはまだ分からないけど。
また、数奇な人生を辿ってきた人の言葉なら、ちょっとは興味を持つ人がいるんじゃないかという淡い期待もある。
いつかは集大成として何かを残したいけれど、しかし、形にすることや、世間からの注目が集まることが大事なわけではない。
ぼくという人間に出会った誰かが、そこから何かを感じ取れるような人間であるように生きていきたい。
生き様それ自体がアートなのだ。