鏡のない世界で 2.
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杏奈の帰りが遅い。
いつもなら夕飯の準備に取りかかる頃には、食料品を入れたエコバッグを肩から下げて帰ってきていた。
薄暑を含んで少し奥行きの増した空は、深い蒼が包み、朱さをあと少しで呑み込み切ろうとしている。
お腹すいたな…。
今日に限って、胸のざわつきが1日消えることはなかった。
悪い予感というものなのか。対峙したくない気持ちから、帰ってきて欲しいのと欲しくないのが何層にも重なり、僕の内部は綺麗な2色の断層になっていた。
「ただいまぁ」
僕の断層などお構いなしとでも言うように、ワントーンで中性的な声が飛んできた。
暗い感情が足枷となって、玄関まで歩く時間を長くする。
「遅くなってごめんねぇ。夕飯ちょっと少なくて、デザート買ってきちゃった」
休みだし今日くらい良いよね。と買ってきたプリンをテーブルに置いてケトルにお湯を沸かし、シャワーを浴びに浴室へ向かった。
相変わらず、帰宅後の一声目にしては論点がずれたセリフを彼女は言う。
外で食べてきたんだ。僕は待ってたのに。決まってたなら、言っておいてくれても良かったのに。
勢いのある水の音が、痛む心臓を容赦なく冷やしていく。
プリンと温かい紅茶を交互に口元へ運びながら、適当につけたテレビを2人で観る。
おそらく今日の出来事も何ひとつ語られないまま、このまま1日が終わるのだろう。
お決まり事となっているこの流れを変えようという選択肢をすでに持ち合わせていない僕の耳に、それは唐突に訪れた。
「楓太、わたし、彼氏ができたよ」
僕の思考は完全に停止した。
彼女の発した言葉の一文字も、理解をすることはできなかった。
いま、杏奈は何を言ったんだ?
彼氏ができた。彼氏とは、恋人のことで、杏奈のことが好きという人のことで、杏奈が好きな人ということだよな。
どういうことだ?
僕がいるのに?
僕と、一緒に暮らしているのに?
「帰り際、告白されちゃった。2人きりで会ったのは今日が初めてだったし、すぐに返事、できなかったんだけどね」
少し赤らんだ頬は、シャワーと温かい紅茶のせいだと思いたい。
「…でも、答えはっきりしてるのに、焦らすなんて、失礼だよね」
立てた両ひざ上に組まれた腕の中に口をうずめながら、ぽそりと呟くと、スマホを手に取り何かを打ち始めた。
返事をしてるのか?ちょっと待て、待ってくれ。
困惑、という言葉が顔全体に書かれていたのだろう。彼女は僕の顔をじっと見つめる。
「なんでそんな顔するの?喜んでくれると思ったのに」
不思議そうに、そして少し不満そうに口を尖らせる。
喜ぶわけないだろう。
そんな要素、どれだけ探しても見つからない。
僕は急に、彼女が分からなくなってしまった。
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