鏡のない世界で 4.3
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さらに一週間が経ち、まだ物思いにふけっていることも多いが、杏奈は起きている時間の方が長くなっていた。
午前のおやつ時間頃おもむろに起き上がり、お湯を沸かして温かいお茶を飲む。あれからコーヒーは飲んでいない。眠りを妨げるのを嫌がっているのだろうか。
お昼前になると、ゆっくりと昼食の準備を始める。といってもインスタント食品かレトルトパウチを温めるだけの簡単な工程のものばかりだ。出前もとらず、食材はネットスーパーで注文し、玄関先に置かれた袋を一昨日引き取っていた。
ゆっくりと時間をかけて食べている。食事に集中しているというより、むしろ何にも集中していないようだった。ふと食事中だったことを思い出すと箸を口に運ぶような状態だった。
TVはついているが音は殆ど聞こえないほどの音量だった。僕はTVを眺めつつ、時折、彼女の顔を覗いては様子を伺った。
僕が近づけば杏奈は必ず反応してくれた。それがいくばくか嬉しかった。一週間前の彼女の世界にはまるで僕は存在していないかのようで、とても寂しかったから。何にも反応のなかった彼女が、今は最低限の日常生活のために身体を動かし、食事をとり、僕を見る。とりあえず、最悪の状態からは回復したのだと、僕はホッとしていた。
杏奈の顔は変わらず曇っている。気づくと涙ぐんでいる時もある。それでも今日は、友人と電話ができるまでになっていた。
だから思いもよらなかったんだ。こんなことになるなんて。
このまま少しずつ、少しずつ良くなって、そのうち笑顔も戻ってくるんだろうって、そう思っていた。
電話の声を子守歌に、僕はいつの間にか居眠りをしていた。
ふと目を開けると、西日を浴びた部屋がオレンジ色に包まれていた。少しの肌寒さと鈍い橙色の温度差が気持ち悪い。
虚ろな思考の遠くで水の音がする。風呂の湯を張る音のようだ。まだ明るいけど、今日は早目にお風呂に入るのかな。そんなことをぼうっと考える。
戻ってきたら、顔を覗こう。今度は僕とも話をしてくれるだろうか。
それにしても遅いな。
湯を張るだけなら数秒もかからない。そのまま併設された洗面台にいるにしても、もう戻ってきてもいいくらいだ。
その瞬間、思考の中に黒いシミが一滴落ちる音が聞こえた。そのシミがまたたく間にどす黒く広がっていく。
入れ替わりで一気に覚めていった眠気とともに身体を起こし、足早に僕は浴室へ向かう。
杏奈は浴槽ではなく洗い場に座り込んでいた。
浴槽にもたれかかり、右手だけを真っ赤に染まった水に挿して。
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