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かわら版No.10 ー 地方の政治に、今なぜ若さが求められるのか ー ②

日頃よりお読みいただきありがとうございます。かわら版No.8から続き、アンソニー・ギデンズを参照して、現代とはいったいどのような時代なのか述べさせていただきました。前回の内容を平たく言えば、私たちが生きるこの現代とは、ローカルなものとグローバルなものの関係が相互干渉し不可分な関係をつくっている、その環境が常に書き換えられるように更新され続けていて、その項のように私たちが位置している、そのような時代と言えるでしょう。これをギデンズは、再帰性、モダニティの再帰性と呼びます。

このような時代において、「あの頃はよかったな~」とノスタルジックに振返る年代や世代の方もいるのではないでしょうか。現在僕は42歳ですが、僕の世代になると、ノスタルジックな振返りはほとんどないかも知れません、「あの頃はよかったな~」と振返るほどの良い時代をボリュームを感じれる程度に経験していないということですが、ギデンズに沿えば、僕の世代は書き換えられるように更新され続ける再帰的な時間体験に埋められてしまっているので、振返り安堵するような大きなノスタルジーは得にくいのです。せいぜい子供の頃の夏休みの暑さと縁側と蝉時雨が織りなす一時の永遠性にノスタルジーを重ねる程度かもしれません。

さて、僕は、ギデンズの再帰性、モダニティの再帰性を持ち出すことで、何を言いたいのでしょうか。つまりそれは、再帰性が徹底されるような背景(構造)を持つ私たちが住み暮らす社会(現代)は、ノスタルジー(過去を懐かしむ感情、老いの記憶)の素となる安定的な時代性を経験していない(もはや経験し得ない)ということです。言い換えるなら、再帰性ゆえに老いが生成されず常に再起動され続けるがゆえの若さがデフォルトになっている社会が現代ということでしょう。

政治家にはいくつかのタイプがあります。その一つは、昔の成果を引き合いに出して今を語ろうする人=過去の政策体験をプロトタイプとして現在の政策課題を考える人と、もう一つは、今の環境を参照して今乃至未来を変えようとする人=現在の政策環境をリソースとして現在及び未来の政策課題を考える人、です。ギデンズに従えば、おそらく、政治家のタイプ・性格は、その政治家の個性が理由なのではなく、時代経験の帰結ということになるかもしれません。極端に言えば、有権者からみた政治家のタイプはどちらかということになります。おっさん的な政治家(再帰性なき老い)か、今どきの若者的な政治家(再帰性ゆえの若さ)です。前者は再帰性がないので的外れな発言をくり出したりします。後者は再帰性ゆえにトレンドにも流行にも敏感です。

私たちが、このまちにどちらのタイプを求めるか、地方の政治に、今なぜ若さが求められるのか、これは市民の皆さんの価値判断の問題です。ただ、この時代の再帰性を社会的事実として考えた場合、私は再帰性ゆえの若さを理解し、米沢を総合的な視座から変えていける若さが必要条件である思うのです。今回はその試論を述べさえていただきました。お読みいただいている市民の皆様の十分な理解と納得を得られているかは、今後の私の研鑽次第となりますが、引き続き何卒よろしくお願い致します。

かわら版No.10


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