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リア充幻想 【青二才の哲学エッセイ vol.29】

 そういえば最近、「リア充」という言葉を以前よりは見聞きしなくなった気がする。その代わりと言っていいのかどうかはわからないが、「陽キャ」とか「パリピ」とかいう言葉の方がよく聞く。単純に自分自身が使う頻度の違いなのだろうか。若者と呼ばれる年齢から遠ざかるにつれ、ついていくのが大変になってきたし、自信もなくなってきた。リア充とかに関わらず「その言葉古いっすよ」とかそろそろ言われそうで怖い。

 若者言葉には趨勢があるし、リア充という言葉は廃れるかもしれない。ただ、リア充的な生活を理想とする私たちの価値観はまだまだ根強いのではないか。彼氏・彼女がいて、友達がたくさんいて、SNSの投稿は充実した生活がうかがえる写真が多くて・・・。こういった生活は理想的であり、「良いこと」だという価値観が社会の中で共有されているように感じる。若者の間に限ったことではなく、大人ではさらに、結婚して仕事が充実しているのがなんとなく世間的に「良いこと」であるという価値観をみんなが共有しているのではないか。個々人としてはそれぞれ思うところがあるだろうが、表向きの価値基準のものさしは人と人の間に置かれていて、なんとなく共有しているように感じられる。

 このような価値基準のものさしは、私たちの言葉と共感によって作られ、強化されていくのではないだろうか。羨ましいと思う人の生活があり、それを「いいよなあ」というようにいろんな人と言い合って、共感し合うことによって、人と人との関係性の中に相対的な価値観が生まれる。長い時間をかけて多くの人が共有し合うことで、その価値観を「良い」とすることが世間の中で「普通」のことになっていくのだろう。いろんな言葉を見聞きし「やっぱりそうだよね」という確証を得ることによってさらに強化もされる。「良い」とされる価値観から自分の行動が外れていると「今の自分は良くない状態なのではないか」と思ってしまうのも無理はない。

 ただ、最近では、その理想の生活というものに疑問を持ち始める人も増えてきているように見える。SNS疲れ、SNS断ちという言葉が出てきたのもその一端だろう。みんなが「良いな」というからといって、自分にとっても「いいもの」だとは限らないと思い始める人が増えたのではないか。リア充という言葉を見聞きすることが減ったことに関係がありそうだ。

 もちろんそのリア充的価値観を否定したいわけじゃない。生活が充実していることそれ自体は誰にとっても良いことだ。ただその充実というものさしが少ないことが肌に合わない人には苦しい。たとえ自分の感情や欲望に忠実で、その人にとって充実している生活を送っているとしても、誰からも承認を得られないのでは辛い。私の個人的な意見としては、一人一人に合う充実した生活のストーリーそのものが、一人一人が言葉を発して共感し合う中で増えていけばいいのかなと思う。社会の中で共有される人生のロールモデルが増えるというイメージだ。今の価値観が言葉と共感で広まったとするなら、同じように「良い」とするものの価値観を言葉で紡ぎ直すことは可能であるはずである。別にそんな大それたことをする必要もなくて、ちょっとした言葉の積み重ねで今の価値観は築かれてきたのだから、日常のちょっとした言葉から変えていけばいい。いろんな人の個人的な価値観を基にした言葉が社会に飛び交い、他者理解が深まる中で「それもまたいいよね」という寛容的な社会になれば、尚いいなと思う。まずは自分の発する言葉を大切にすることからはじめたい。

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