「みんなちがってみんないい」と、本当に思えているか vol.31
仕事で営業をし始めて今年で4年目になる。自分で言うのも変な感じだけれども、全体的に見てお客さんとの関係は良好だと思う。仲の良い人とは打合せで会った時に仕事のことだけでなくて、プライベートな話をすることも多い。野球やソフトボールを一緒にする人もいる。人に会いに行くのが面倒だと感じることも多々あるけど、立場や年代の違ういろんな人とこうして関われることで面白いこともあるし、私の身の肥やしにもなっているのかなと思う。
個人的には、仕事上での人との距離の縮まり方が好きだ。世代や立場も違い、会社というバッググラウンドがあるのも大きいと思うけど、最初に心理的な距離感があるのはありがたい。変にズケズケとパーソナルスペースに入り込まれない安心感がある。仲のいいお客さんとも最初は距離感があったけど、今になって思うとそれが良かったのかもしれない。ゆっくりと距離が縮まることで、お互いの価値観や考え方の違いに対する違和感が和らぐのだろうかと思う。単純接触効果というやつも関係しているだろう。逆に自分が変に入り込んで不快な思いをさせてしまうこともない(はず)。そう考えると敬語ってよくできているなと思う。自ずとその場にいる人と人との間に距離感が生まれる。距離感というより、お互いが安心してコミュニケーションをとることができる「間合い」と呼んだ方がいいかもしれない。学生の頃は私に対して敬語を使う目上の方が少し不思議だったけど、今ならその気持ちはすごくよく分かる。安心できる間合いを保つことで、安心してもらいたいし、自分も安心したいのだ。
このコミュニケーションにおける「間合い」を意識できるようになってから、私は人と関わる時に随分と気が楽になった。もう少し早く、なんなら学生の頃に知りたかった。学生の頃は、みんなといきなり仲良くしようとしすぎていたのかもしれない。みんなとうまくやらなければ、輪に入らなければという思いが強すぎたのかもしれない。いきなり距離を縮め合うことで、お互いの違いを飲み込めず、傷つけあってしまうことはよくあった。
「学校は同じ歳の子が集まるんだし、すぐ仲良くできるでしょ。感覚だって似ているだろうし。」と思う人もいるかもしれない。ただ、家庭環境や親の考え方も多様化した今、子供の持つ感覚や価値観も多様化しているはずである。それでも私達の社会の方の意識は、「これが当たり前」「これが普通」という言葉でもって人々の同質性を信頼しているような気がする。子供はその背中を見て、その感覚を取り込んだ上で距離を縮めようとするから、違いを飲み込めずに傷つけあってしまうのかなと思う。違うことそのものがよくないと言葉にしてしまったりする。
私の個人的な意見だけど、人間関係で悩む子供達は、相手との「間合い」を意識してみたらいいのではないかなと思う。同学年の子に敬語を使えとまでは言わないけど、まずは心理的な距離感をとってみたらどうか。ゆっくりとその距離を縮めていくことで、違いをお互いに飲み込みやすくなるのではないか。なんとなく苦手と思っている相手と下手に傷つけ合うより、一歩引いた場所から相手を感じることで受け入れられるようになるかもしれない。
なにより、「みんなが違って当たり前」という価値観を大人の側が作ることが大切だと思う。繰り返しになるけど、子供は身の回りの大人の背中を見ている。ふとした一言を見ている。その場の空気を鋭敏に感じ取っている。社会の文化ってそんな小さな世界で継承されていくのではないか。メディアやインフルエンサーの力だけではないはずだ。
どちらにせよ、ああしろ、こうしろと言ったって子供は言うこと聞かない。背中で語る大人になりたい。そっちの方がなんかかっこいいから。
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