Sommマサ
2003年から南チロルでソムリエとして働いているマサがサービス業を通じて気付きや考え方をコラムにしています。
ミラノの日常は・・・朝10時に起きて11時から語学学校。昼過ぎに帰ってきて、切売ピザなので昼食を済ませて15時に出勤。20時の営業時間を迎えるまで準備を行い、ゲストがお帰りになり、すべての業務が終わるのが24時過ぎ。夜中の1時前に帰宅したら、シャワーを浴びてルームメイトの福本伸也から夜食を作ってもらう。そこから明け方まで学校の宿題とワインの勉強。これが21歳の山下少年の1日のサイクル。 そんな中でもゆっくり寝ることもできる唯一の日曜日。しかしそんな日曜日はほぼ部屋の掃除
2001年の春からお世話になり始めたサドレル。そこでの私の仕事はワインをサービスすること。いわゆるソムリエの仕事と必要に応じてお皿を出し下げするカメリエーレの仕事を任されました。 「イタリアにはワインを勉強しに来ました!」 面接の時に大きい口を叩いてしまった山下少年は、ミラモンティで身につけたサービススタイルと本で得た知識のみで臨むことになりました。 しかしどんなに注ぎ方がうまくなっても、デキャンタージュができても、リストに載っているワインをテーブルまで持っていくまでの
3世代続くニーノ・フランコ社は、現オーナーでもあるプリモ氏の祖父アントニオ氏が、1919年の第一次世界大戦後「カンティーナ・フランコ」という名でワイン産業に参入します。 アントニオ氏の息子ニーノ氏と共に、カンティーナは品質と規模を向上、拡大していきます。1970年代にニーノ氏の息子、プリモ氏により近代技術が導入され、その品質は不動なものへと変わっていきます。 コネリアーノの農業大学を卒業後、プリモ氏はまず自社畑の区画を見直し、場所によってはそのブドウを一切使用せず、醸造段
新たな門出21歳の3月、まだまだ冷たい春風が吹く中、山下少年はレストランサドレルの門の前に立っていました。このレストランで働くためにオーナーのサドレル氏と面接をする約束をしていたのです。数ヶ月前に康一兄さんと食べにきた時とはまた別のどきどき感と感じながら、いざ呼び鈴を押そうとするところでした。 思えばこの2ヶ月はたくさんのことがあっという間に過ぎ去って行きました。1月のサドレル訪問時の福本伸也との出会いからこうも時の経つ早さを感じさせられるとは、ベルを鳴らすまで気づかな
「これは南イタリアのサッシカイアだ」そうロバート・パーカーに言わせたワインの作り手はモンテヴェトラーノのオーナー、シルヴィア・インパラート氏。彼女はローマで人物写真を撮る写真家でした。一人の顧客との出会いが彼女をワインの虜にしてしまい、ローマのエノテカで企画された試飲会へ参加するようになりました。そこで知り合ったレンツォ・コッタレッラ氏に相談をし、彼女の好きなカベルネベースのワインをカンパーニャ州で作ることになったのです。場所はサレルノよりほど近い丘陵地帯にある、中世から
ブォニッスィモ Buonissimo!! さてワインの注文はといいますと、これがいつものごとく大変な問題なのでした。当時から僕は何を食べようかと悩むメニューより、何を飲みたいか悩んでしまうワインリストに多くの時間を費やしていました。もちろん無言で。だまってワインリストとにらめっこをしていると、同席の方はたまったものではありませんね。その日も同じように康一さんを放っておきワインリストにかじりつきます。 当時働いていたミラモンティラルトロでは1,300種類という数多くのワイ
ミラノのリストランテ「サドレル」のホスピタリティ2001年の1月、その日僕と康一兄さんはミラノでタクシーに乗っていました。行き先はミラノ市内の南、ナヴィリオ地区にある康一兄さんの大好きなお店「サドレル」。 ちょっと出だしが遅かったせいもあり、予約の時間になってもまだたどり着けずにいました。その時、康一兄さんの携帯が鳴ります。 「今どちらにいらっしゃいますか?道はお分かりですか?」 とレストランから親切なお電話。 ミラノのタクシー運転手さんも「この場所はわかりにくい
ブレッシア市とイゼオ湖の間に位置するフランチャコルタ地区。20 のコミューン(自治体)でシャルドネ、ピノ・ネロ、ピノ・ビアンコが作られて、それらを瓶内二次発酵で仕立て上げられた辛口のスパークリングワイン。それがフランチャコルタDOCGです。 1995年にDOCGに昇格するまでは、フランチャコルタ・スプマンテDOCという名がつけられていました。このワイン生産地の歴史は浅く、ここ30年で品質も知名度も上がってきたといわれています。もともとこの土地は貧しい農業産地だったのです
食から得たものと生まれるもの毎月頂くお給料を毎週外食に当てることで、「食べる」こと以上に色々なことを感じることができたのも事実です。お客さんという立場からスタッフの立ち居振る舞い、ワインサービス、お皿の構成、お店の雰囲気を見て感じることができたのは大きな財産になったと思います。見栄えがきれいで絵のようなお皿に巡り会えたり、知らなかったワインが自分好みのものであったり、大衆的なトラットリアではまるでそこが自分の家かと思うくらいリラックスした雰囲気で食事を楽しめたこともありま
僕が働いてたレストランの街とは・・・ ブレッシア県のコンチェジオ村、幹線道路の通る人里離れたこの場所にリストランテ・ミラモンティ・ラルトロはあります。 ブレッシア市内からは10kmほど離れた位置にあり、車がない場合の行き来には唯一バスしか交通手段はありません。そんなバスも来る時と来ない時がありますし、乗車するためのチケットが売っているタバッキ(通常タバコ屋さんですがバスの回数券やチケット、新聞・雑誌などを販売し、日本で言う宝くじのようなものも購入できるお店の総称です)も
フランチェスコ・ファルコーネフランチェスコ・ファルコーネという先輩ソムリエとの出会いも衝撃的でした。彼は僕よりも後に入社したのですが、グアルティエロ・マルケージという有名レストランでサービスを勉強していたという経歴で、マウロ社長から引き抜かれた人材でした。 さすがに目を付けられたサービスマンだけあり、サービスでの見せる技術は素晴らしいものでした。水をつぐにしても、お皿を出すにしても見ているだけで、ちょっとうっとりしてしまう見せようだったのです。 彼の料理、ワイン、チーズの
ドルチェット・ダルバ ルチアーノ・サンドローネ 「もし無人島に1本のワインを持っていくとすれば、ドルチェットを持っていくだろう」ピエモンテ州の有名な醸造家の言葉です。 果実味豊かでフレッシュな味わい、しかも幅広い料理やチーズに合わせやすいワインを作るこのブドウは、ピエモンテ州を中心に北イタリアで栽培されています。 ところでこの名前、「ドルチェット」。 一見甘いワインかと思ってしまう名前ですね。(イタリア語で甘い、またはお菓子のことを「ドルチェ」と言います) しかし
北イタリア・ボルツァーノのホテルで春の様子が伺えました。
レストランという舞台へ初日の営業、こんな日本人の若造が蝶ネクタイで黒服を着させてもらいサービスさせてくれるなど誰が想像したでしょう。 通常日本で黒服を着たサービスマンは経験も知識もあり、なによりお客様からの信頼があって初めて着ることのできるあこがれの服と僕の中では解釈していました。 そんな状況でドキドキしながらお客さんのいるホールへ向かう心境は、まるで演劇の舞台へ向かう役者と同じような感覚だと思います。 しかし、いざホールへ出てみると意外にそこまで緊張しなかったので
サービス業に従事するスタッフとして、働きたくても働けない。 こんな時は『未来の仕事』に注力することです。 そのための私が実践していることを共有します!