今日も

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もし見る角度を変えれば
私なんて失敗だらけ過ぎる
人生だと思う。


もし考えようと思えば
私の人生なんて
後悔と自責の念だらけ
だと思う。

感じることに振り回されれば
そうなるし、

そう感じている自分と
一緒にいてあげながら
なんとか本当のことへと
なんども本当のことへと
戻って行くことを
繰り返して来たから

幸せな私と言う
アイデンティティになる。

私は相変わらず傷だらけで
何かと言うとその引き金をひかれ
外の誰かでなかったら
自分を責めたくなるけど、

どんな自分でも自分が
愛してあげると決めたから
どんな時でもどんなことでも
徹底的にそれを
繰り返すだけ。

私の周りには
力があって
幸せに見える人たちが
たくさんいるけれど

彼らなりに苦悩があるのは
話を聞くことがあるから
私なりに知っている。

例えば小さな嫉妬や
自分を不十分だと言う気持ち
とか、

やりたいことを
制限されている感覚とか

そう言うやつも
その下にはみな苦悩があるんだと
私は思っている。

この世界は本当に不思議な場所で
みんながまるっとそのままで
いいのに

みんながそのままの自分に
ダメ出ししては

何者かになろうとする。

それに成功した人たちは
あたかも自分をまるっと
愛しているかのように見えるけど

裸の自分をやめただけの
場合もあるからわからない。

何者かになろうとするのが
悪いわけじゃない。

それにそのヘンテコな動きに
耐えられると言うのは
すごいことだ。

同時に誰もがみんな
もっと本当の自分に戻って行きたいと
望んでいる。

ありのままで愛されると言う
何気ないそのままに。

それなのになぜかまた
新しいゲームにのっかり
自分の価値を証明しようと
躍起になる。

ゲームはハマりやすく
楽しいからね!

私は相変わらず
乳幼児の時代の
ニーズの上塗りに
すぐに乗っ取られる。

他人への期待や
外からの承認や賞賛を
を求める気持ちや

そんなものはみんなみんな
赤ちゃんに戻っているようなもの。

お母さんに求めていることを
赤の他人に求めても
もちろんいいのだけれど、

結局そこは自分で
満たしていかないと
いつまでもそこから
自由になれないのだと思う。

私は今日も私の面倒をみる。

赤ん坊と原始人のニーズ丸出しの
私の面倒をみる。

ADHDの私にとってそれは
毎日が大仕事だ。

毎日お手伝いの人に
来てもらっていた時期も
あったのだけれど

HSPの私には神経系に
負担になってやめてしまった。

ご飯作ってもらって
嬉しかったんだけどね。

でもね、
こうして散らかり切った
お部屋の真ん中で

自分の死んだ細胞や
(掃除機かけてないから。笑)
生き生きと羽を広げるかのように
元気な植物や

さまざまな必要と思い込んでいる
本当に必要かも知れないものと
本当はいらないものであり

でもどこかで
自分好みであるものたちと

一緒にいることが

全然悪くない感じがして
むしろヘンテコな幸せを
感じたりして

それは一生懸命「できる自分」を
分かち合っている時より
目覚めているような
気さえするよ。

と言うか、できる自分の時は
大抵チャネリング状態だから
私に与えられるべき点数はないの。

単なる器に過ぎないって言う
感覚だから。

それにしても今日も
天気がよろしくて

南向きの今には光が差し込んで
暖かい。

今あるちょっとした胸の痛みが
この小さな幸せを
増幅させてくれている
気がしているのが
面白い。

とんでもなくポンコツで
ファンキー、

愛情と才能溢れる私の日々は
今日も続いていく。

ポンコツはもちろん
その才能を生きることにさえ

時々疲れ果てて
もうこの世界にさよならしても
いいよね、

神様、

なんて
独り言をいわずおれない日もある。

それでもあなたの笑顔を
見ることができているから
私はこうして生きている。

いつもありがとう。

そみ、今日も頑張るよ!

(頑張らなくてもいいけどね!)

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