大学にいるのがくるしい!

あと数ヶ月で大学を卒業できる。やっと。

大学生というモラトリアムが終わることの寂しさより、大学にも馴染めないほどの自意識の強さにもう うんざりしなくていいんだ!という安堵の気持ちが大きい。

自由であればあるほど、選択肢があればあるほど、なにもしてない自分の敗北感が強まる。

入学前は、「やっと世間と隔離されすぎた中高一貫校から解放される!私は自由だ!はっちゃけるぞ!」と意気込んでいたのに。

そんな淡い夢は入学後数ヶ月であっさり萎んだ。

大学にいると、信じられないくらい編み目が荒い人もこの世の中にはいるんだよなあーと思い、自分の網目の細かさとの差異にがっくりする。

就活ほぼやらずで今更焦って、就活浪人をギリギリで決め込む人、必修落としまくってても親のコネとカネで自費留学する人、webテストを友達とみんなで協力してやる人。

こういう人たちがうじゃうじゃいて、それがマジョリティなのが大学という場所。(少なくとも私の近辺は)

マイノリティはこちら側。彼らはなんも悪くないけど、私にとっては信じられないことばかりだ。


私には気になることが多すぎる。

よく人の心の状態をコップの水に喩えることがあるけれど、私はザルで喩えたい。

もっというとザルの網目の細かさ。

大学にいるのは、ザルの網目が荒い人たち。彼らは、授業をサボったり、単位を落としたりと、ちょっとやそっとのことでは騒がない。どーんと構えている。そして、その荒さを武器にいとも簡単に私を笑わせる。さっきあれほど揶揄のように指摘してしまったが、私はやっぱり彼らにモーレツに憧れる。

私の家族や仲の良い人たちは、ザルの網目が適度に細かい気がする。類は友を呼ぶ、からやっぱりそういう人といると双方安心するのだと思う。

そして、当の私はというと、ほぼボウル。
網目がない。些細なことも受け流せない。はちゃめちゃなアドバイスしてくる大人は受け流せ、と言われるけれど、いやいやこっちは響かせちゃうのよ。受け流すとか辞書にないのよ。だからまず変な水は流してこないでよ、という。そりゃすぐ容量いっぱいになるわ、と思う。

はたまた、網目の細かさにばらつきがある人もいて、私はそういう人を天才と呼ぶのだと思っている。一部分の網目だけ異様に細かくて、他は網目がすごく荒い。

これって、一つのことだけに我を忘れて夢中になれる能力だったりすると思う。ただ、他が欠落していることが多い気がする。ゴッホとか・・・。最近観た「画家ボナール」の映画を観ても思った。知人にもそういう人がちらほらいる。

網目が細かい分野で彼らが見せてくるとんでもない繊細さと、他の分野での抜けっぷりのギャップにこれまた惹かれる。あんた、いいモンもってるねえと唸りたくなる。

それはそうとして、私のこのちゃちなボウルになんとか穴を開ける方法はないのだろうか。

大学卒業すればなんとかなるものでもなさそうだけれども・・・



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