『浜』『師匠』『衝立』
白浜と、この寺の庭を5往復せよ。衝立の前、師匠が告げた言葉はそれだった。
「はい」
一も二もなく応じた。そうしなければならなかった。師匠の住む寺と、種差は白浜の間には1里ある。5往復もすれば5里。無論、それが終われば仕事をしなければならない。日がな一日走っていられるわけもない。
最初は丑三つ時に出た。そうでもしなければ、明け六つの鐘に間に合わなかったから。疲れと眠さのあまり家業の最中に寝て、親父にどやされることも少なくなかった。見習いとはいえ宮大工だ。どやされるというのは、端材で殴られることを意味していた。
それでも、続けるうちに速くなった。丑三つ時が寅の時になり、そのうち寅の時の終わり際に走り始めて明け六つに間に合うようになったのだ。そうなった頃、息を切らす俺に向けて師匠が告げた。
「もうお前に教えることはない」
「お師匠様。ありがとうございました」
師匠は、一介の化け狸に過ぎない俺に化けの技を教えてくれた狸だった。山で食えず、野に下り、町に入って叩き殺されそうになっていたところを、坊主に化けて救ってくれた。
「人間は、走っている者を疑いはしない。それも暗いうちから走っているような者は真摯だと尊敬すら覚える。だから、これでお前は町民の一人だ。それに、走っているうちに人間の体にも慣れたろう」
言われて頷く。化ける際に躊躇う事も、尻尾なしで走る技にも慣れた。そして、慣れてみれば人間の体は合理的にできていると思ったものだ。
ではな、と師匠が背を向ける。振り返れば空が白んでいた。明け六つの鐘が鳴る。豆腐と稗を食って、今日も一日が始まる。
働けば食える。そのような合理で動いている人間の世界は、俺のような山の落伍者にとってはこれ以上なく優しい世界だった。