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『孤島』『盆』『鳥籠』

 カプリ島に来ていた。イタリアはソレントの西に位置する孤島で、ローマ帝国二代目皇帝のティベリウスが住んだことで有名な島だ。といっても船はナポリから出ているし、ナポリ湾を45分も揺られてやってきたわけだが。
 いつか来たいと思っていたその島は、風光明媚という表現ではまるで足りない澄んだ青で迎えてくれた。溜まりに溜まった有休を消化する目的で来たこの土地には、様々な観光スポットがある。有名な青の洞窟は勿論、スペルロンガビーチにあるティベリウスの別荘跡や博物館も見てみたい。そう考えてみると、見るものが多すぎてカプリ地区のブティック街は最後に回すべきだろう。というか、ブティックに回す金が残るとは思えない。観光地だけあって、どこのホテルも目玉が飛び出るほど高かったからだ。青の洞窟ツアーも2万円からだし、観光地は何もかもが高い。

「やめやめ」

 観光地に来てまで金の事を気にしすぎるのは良くない。ツアーで申し込まなかったのも、金は勿論だがツアーで行かなそうな所に行きたかったからというのもある。心が沸き立つというものだ。
 とりあえずブティック街から急速に距離を取り、白壁の住宅街で有名なアナカプリ地区へ向かうバスに乗る。バスは満員で、運良く座れたものの見知らぬ女性と相席になってしまった。白皙の肌にふわふわの茶髪。イタリア美人という雰囲気そのものの女性が、私へニコリと微笑みかけてくる。そのまま、驚くべき早さのイタリア語で話しかけてくる。

「日本人? 中国人?」
「あー、日本人です」
「いいね、日本。一回行ってみたい」
「ええと、どこに行ってみたいですか?」
「ホトケガウラ。知ってる?」

 知らないので首を振る。沼津生まれ沼津育ち、沼津から出たのはこれが初の私からすれば日本だって未知の土地に満ちているのだ。

「知らないか。地形がファラオリーニに似てるんだって聞いて、一度は行ってみたいと思ってるんだ」
「そうなんですか。……ええと、もし日本に来ることがあればご案内しますよ」

 流石に日本語が通じる土地なら知らない所でも案内できるだろう。半ば軽口の気持ちで言うと、彼女は目を輝かせて手を握ってきた。

「ほんと!? ありがとう、じゃあ連絡先教えて! Facebookやってる? 電話番号は?」
「国際電話だと凄くお金かかるので、電話は、えっと……勘弁してください。FacebookとDiscordのID教えますね」
「ありがとう! 楽しみだわ、いつか日本に行く時は頼らせてね。じゃあお礼しなきゃだから……そうだ、今日の宿はどうする予定? どこを観光するの?」
「運良く安いホテルが取れたので、そこに泊まる予定です。明後日までしか居られないので、青の洞窟とヴィラ・ヨヴィスだけは抑えたいと思っています」
「ヴィラ・ヨヴィス。ティベリウス帝の宮殿ね。あそこに行く人は珍しいよ」
「まあ、ティベリウスは人気のない皇帝ですから」
「いや、立地が悪くて。歩いて45分行かないと着かないんだよ」

 それは調べて知っていた事だ。私の瞳が揺らがないのを見て取ったらしく、彼女は深く微笑んだ。

「宿が決まってるなら、一緒に夕食を取らない? おすすめの店があるの」

 丁度バスが止まる。降車の流れに巻き込まれていく彼女とはそこで分かれた。仕方がないのでホテルにチェックインして荷物を放り出し、バルコニーも何もない部屋にうんざりする。Discordの通知が来ている事に気付いてスマホを開けると、彼女からの誘いの文が踊っていた。レストランは景色と料理の味で楽しませてくれるタイプらしく、私は一も二もなく彼女の誘いに乗ることにした。

「やーやーアキラ、来てくれてありがとう! このままだと一人で夕食かと思って困ってたんだ」

 ぶんぶんと手を振りながら近寄ってくる彼女に、小さく手を振って応じる。ぐい、と手を引かれてレストランに入り、予約していた二人組だと告げる。私が応じなかったらどうするつもりだったのだろう。
 だが、誘いに応じて正解だった。ナポリ湾を望むバルコニーレストランからの景色は、沈む夕日で紫に染まっていたのだ。

「来てよかったです」
「でしょ」

 料理が来るまで、食前酒を頂きながら彼女の話に耳を傾け続けた。ファッションや仕事のこと、カプリ島への愛着や日本への憧れ。様々な方向に転がる彼女の話は捉え難いが、それも小鳥の囀りを聞くようで心地よさがある。
 そうしているうちに、ウェイターが盆から料理を下ろし、モッツァレラチーズとトマトの和え物やタコのサラダが皿に並んでいく。新鮮な食材だ。素直に美味しい。

「そういえばさ、なんでカプリ島に来たの?旅行先なら色々あるだろうに」
「そうですけれど、最初に思い浮かんだのがカプリ島だったので。うるわしき南の国もゆる陽の輝きよ!Che bella cosa e’ na jurnata ‘e sole, n’aria serena doppo na tempesta!好きなんですよ、この曲」
「’O sole mio ね。ナポリの曲だけど。……あなたが男だったら口説かれてると思ってたかも」

 その瞳に差した、少しの寂しさを見て取る。彼女の世界はきっと狭い。カプリ島で生きてきて、それ以外を知らないのだ。いかに風光明媚とはいえ、島は島で鳥籠は鳥籠だ。
 私が出てきたように、彼女も出たっていいのだ。それを伝えたくて、彼女の手を握った。

「約束です。いつか日本に来てください。その時は、きっと日本の名所をご案内しますから」

 夕日が沈み、ナポリ湾が赤く染まっていく。彼女の頬が赤く染まっているのは、きっと見間違いではないだろう。

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