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『星』『母』『バラック』
空襲で焼け落ちた東京にバラックが立ち並び、食事や衛生環境の不満はありながらも生活そのものはできるようになってきた。父は戦地で死に、慰労金も国債も圧倒的な物価高の前では使い物にならない。箱入り娘だった母では稼ぐ手段はなく、母方の祖父は戦犯として処刑されている。頼れる物は殆ど無かった。
母がパンパンに堕ちるのは当然の流れだったのだろう。高位軍人の令嬢だった母が、今では米一升のために身を売るのだ。世の無常を嘆く気持ちが無いではなかったが、それでも俺たちは生きなければならなかった。妹がいるからだ。ガダルカナルで蛆の苗床となった父の忘れ形見がいるからだ。その柔らかな肌が柔らかなままであるために、俺たちはいくら汚れてもいいと思えた。
俺も年齢を偽って働いていた。顔立ちが冴えないので、稼ぎの良い夜の仕事はできようもない。だが、紡績工場の建設では父親譲りの頑丈な体で活躍できたし、沖仲司でも割りの良い給料で働くことができた。そうやって金を稼ぎ、闇市で食い物を買って帰る。それが新しい日常だった。
「兄さん、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
家の扉を開けると、ご飯と大根の煮付けが立てる芳しい香りが漂ってきた。妹が料理をして待ってくれている。それが二足の草鞋で疲れ切った体を癒してくれる。この場に母がいない事実と理由を考えると気持ちが沈むが、この米と大根の出所を考えれば文句は言えない。
「紡績工場、そろそろできそうですか?」
「うむ、来年の春には完成するだろうという話だった」
ご飯と大根の煮付けに火が通り直したらしく、妹がそれらを木茶碗によそって卓袱台に持ってくる。どれもこれも闇市で買ってきた新品だった。
いただきますの挨拶をして、黙々と食事を進める。その最中にも妹が視線を送って来ており、何か言いたいことがあるのは明白だった。それを聞くために手早く食事を終わらせる。幸か不幸か食事の量は少なく、すぐに食べ終わった。
「兄さん、私を紡績工場に紹介していただけませんか」
「駄目だ」
そんな事だろうと思っていた話がやってきて、返そうと思っていた通りの言葉を返す。彼女がそんな事を言いだした理由も分かっている。母や俺が仕事をしているのに、自分だけが益体もない勉学を続けているのが忍びないということなのだろう。
「辛い暮らしをさせているのは申し訳なく思う。だが、今はこらえてくれ」
狡い言い方だと我ながら思う。彼女の本音が「もう少し楽な暮らしがしたい」だろうが、「俺たちの負担を減らしたい」だろうが、この言い方なら反論の余地がない。
目論見通り妹は閉口し、射干玉の瞳にうっすらと涙を浮かべた。気持ちは分かる。自分が重荷になっていると理解した時の無力感ほど身に染みるものはない。それを感じさせるのは忍びないが、それでも彼女には耐え忍んでもらわなければならない。
「いつか必ず、日本が復興する時が来る。何十年後になるかは想像もつかないが、必ず来る。その時に役に立つのは頭脳だ。だから、お前は学校に行きなさい」
「でも、学校に入るためのお金なんて……」
「ある」
金庫を開ける。中身を彼女に見せる。息を呑む声が聞こえた。
その中には、渡された慰労金や国債がぎっしりと詰まっていた。
「兄さん、このお金……」
「俺と母さんで決めたんだ。絶対にお前だけは身綺麗なままにしておくと。生活費は仕事をすればどうとでもなる、父上の慰労金はお前が学校に行くために使うとな」
妹の瞳は涙を湛えていた。瞳の中に宿る星が、煌めくような光を放つ。やがてこらえきれずに零れた水滴が、畳に落ちて染みを作った。