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『鍾乳洞』『校長』『農具』

 日本一長い鍾乳洞と言われている安家洞には、校長先生の泣き所という岩がある。小学校の校長が子供数人を連れて安家洞に入ったとき、校長先生だけが取り残されて泣いていたという故事に由来する、比較的新しい逸話による名前だ。
 そんな名前がついている事には理由がある。安家洞が広く、長いためだ。メルクマールが無ければ迷い、迷う鍾乳洞は観光資源にならない。観光資源としての開発・整備のためには場所への命名が必須だったのだ。校長先生がうずくまって泣いていたという逸話は、その可笑しさから安家洞のメルクマールとして採用されたのである。

「私にそんな話を聞かせてどうするんですか」
「ああ、メルクマールというのはドイツ語で『中間目標』という意味だよ」
「いえ、そちらではなく」

 鍾乳石や石筍を眺めている宇霊羅うれいらさんは農具を背負っており、きめ細かな石灰質の肌が生物的に動いている。彼女は山の女神だ。ただし、この安家洞がある山の女神ではなく、南にある龍泉洞を擁する宇霊羅山の女神だ。正しくは女神を自称している、だが。
 曰く、神の宿る石である盤座いわくらが割れてしまったとかで、新たな盤座を探して岩手県内を歩き回っているのだそうだ。安家洞のある岩手県下閉伊郡岩泉町に来ていたところを勧誘して連れてきているというわけだ。
 この日本最長鍾乳洞なら彼女の盤座に相応しい石があるはずだし、それをメルクマールにできれば探索はさらに進む。これはwin-winの取引だ。

「どうして鍬を持たせているのか、ということなのですが」
「そりゃもちろん、宇霊羅さんが盤座に宿った時のためですよ。あなたをメルクマールにするためにはそれなりの目安が必要です。日本における農業は家族ぐるみの作業ですが、鍬入れは男の仕事でした。それを女神である宇霊羅さんが持つことで女性解放のニュアンスを持たせることができるわけです」

 宇霊羅さんが、石灰の肌を動かして疑問を表明した。

「観光地で政治的な主張をするのはどうなのでしょう」
「それはまあ、良くないですね。しかし仮呼称ですから」
「仮置きは本置きになると良く言われるようですね。それこそ、校長先生の泣き所がそのままになっているように」

 しばらく考えて、反論の余地が見当たらない事に思い至る。小道具でメルクマールを作れるなら元からそうしているのだ。そうしていないのは、観光資源化にあたって小道具が目障りになるためである。

「じゃ、鍬は置いていきますか」

 安家洞の入口に鍬を置き、宇霊羅さんを連れた旅の一歩を踏み出した。

「ところで貴女は何者なんですか?」

 彼女の石灰質の指が、私の石灰質の髪を撫ぜる。別に言う必要はないことだ。私が安家洞の女神だとか、メルクマール云々が適当な言い訳で、話相手が欲しいから奥に連れて行こうとしてるということなんかは。

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