『ロバ』『王妃』『屑』
王様の耳がロバの耳と知った床屋は、帰りしなに王妃から呼び止められた。
「お疲れ様です。早速ですが、夫の耳について知ってしまったとか」
「秘密とは、なんのことでしょう」
床屋はとぼけた。王より、耳に関して決して口外するなと誓った以上は彼の妻にさえも語ってはならないのだと彼は思っていた。
「とぼける必要はございませんのよ。私は夫と閨を共にしているのです。秘密を共にする同士ですもの、私の方も誰かに語りたくて仕方がないのです」
「申し訳ありません、全く心当たりがないのです」
床屋は頑なだった。王により、耳がロバの耳であるという秘密を語るなと言われた以上、決して誰にも話してはならない。それは床屋が王に誓った以上に、自身に誓ったことでもある。
王妃が侍女たちを払っている。秘密を広く知らしめる気がないことは分かっていたが、そんなことは関係がないのだ。たとえ秘密を知っている同士であれ、決して口外してはならないと思っていた。
王妃は溜め息をついた。床屋としては一刻も早く帰りたかったので、話を終わらせてくれる予兆に安堵した。
「結構ですわ。お帰りなさい。勿論、私があなたに話掛けた事も秘密にしてくださいましね」
ボスフォラス海峡を越え、アジアからギリシアへと移ってきた床屋にとっては知っていても前提になっていないことだったが、ギリシアの女人は厳格な家父長制の下に置かれている。従者も伴わずに夫以外の男と出会う事など、ギリシアの女人には許される事ではなかった。
「もちろんです」
秘密は甘く、恋焦がれる者は後を絶たない。だから秘密暴きには恐ろしい死が待っている。ミダス王は、ロバの耳である以上に触った者を黄金に変える能力を持っているという噂だ。生きたまま黄金に変えられるという未来は、床屋に幾ばくかの恐怖を与えていた。
だが、それ以上に、誓いを破ることの方が彼にとっては恐ろしいことだった。
床屋が床屋になったのは理由がある。それは商人としてアジアに居た頃、金に目が眩んで誓いを破ったことだ。それによりアジアで商うことが許されなくなったどころか、命まで危うくなった結果がギリシアの床屋である。
一息で湯を飲み干した床屋は、ひそひそとミダス王の宮殿から退出した。彼はそのまま、秘密を抱えたまま流行り病で墓に入った。ミダス王は床屋の死と秘密が流れていないことを知り、自らの浅薄な態度を恥じて耳を晒すようになったという。