見出し画像

『図書館』『爪』『掻く』

 清水和水なごみちゃん。1週間前の客船沈没事故における、数少ない生き残りだ。散歩中に彼女を見つけて救命措置をしたのがきっかけで、見舞いのために毎日通っている。救急病院は家から歩いて10kmの位置にあり、運動にも丁度いい。こうして和水ちゃんのいる病室に来ているのはそういうわけだ。
 和水ちゃんは、事故のショックで心因性失語症を患っている。器質的には発話可能だが、話そうとする彼女の苦しさを見れば筆談で対応することくらいは気にもならない。

『おはようございます、にのまえさん。今日もお見舞いありがとうございます』

 顔色は悪い。病院から海上保安庁に連絡が行ったのもあって、事故の詳細は彼女にも知らされているのだ。
 一度関わったからには最後まで関わらなければと思って、図書館で新聞を読んだ。仕事柄、ヤサに人を招きづらいから新聞を取っていないのだ。
女王丸遭難事件以来の触雷事故。完全な民間船舶が太平洋戦争の残滓に巻き込まれたことを受けて、在日米軍はおろか米国大統領さえもがコメントを出す大事件となった。
 和水ちゃんは両親を失った。保険金と相続遺産と慶弔金名義の日米両政府からの入金を合わせて、一生遊んで暮らせるだけの金を彼女は得た。バランスが取れているとは到底思えないが、それでも彼女は金を得たのだ。
私より先に来ていた人々が渡したらしい養子縁組の書類が、彼女のベッドテーブルに山と積まれている。

「叔父さんたちが来ていたみたいだね?」

『はい。おばあちゃんの家で見かけたことのある人もいましたけど、全然知らない人もいました』

「まあ、そうなるよね」

 人は金が絡むと限りない醜さを見せる。彼女がどうなるのかについては、考えれば考えるほど気分が悪くなる案件だ。和水ちゃんはメモ帳から手を放し、手首を爪で引っ掻き続けている。ストレス反応だ。そうもなるだろう。
 どうしたものかな、と思う。袖摺り合うも他生の縁という。ちょっと前まで多少の縁だと思っていたのだけれど、正しくは他生、つまり前世の縁ということだ。
 私は前世など信じてはいない。人は死ねば虚無ニヒロに帰る。だからこそ、生ある限りそれを謳歌しなければならない。これだけの過酷を背負った和水ちゃんなのだから尚のこと。他生ではなく今生の縁だからこそ大事にしなければならないと思うのだ。
 和水ちゃんが退院するまで時間がない。漂着までの時間と経緯に比べて肉体疲労も少なく、打ち身もないのでほぼ無傷だったのだ。だからこそ、彼女の進退は早めに決める必要がある。
 本当に気が進まないが、私が引き取る事を考えているのだ。仕事柄金には困っていないし、養子縁組を取り付けてくれる役人にもアテがある。借りを作ってしまうことになるのでいくらかは無報酬で依頼を受ける必要があるだろうが、それをする必要があると思っている。

『どうかしましたか?』

 私の百面相を受けて、心配そうな表情で和水ちゃんがメモ帳を手渡してくる。綺麗な字だ。

「うん、ちょっと考え事。うん……和水ちゃん、私の養子になる気はない?」

 途端に、和水ちゃんが警戒心を剥き出しにした表情を作る。そうもなる。彼女は親より金を気にする人々に群がられて今に至っているのだ。私もその一人だと思ったのならば、警戒心を剥き出しにもするだろう。
 人の内心は証明できない。私の老婆心が完全に伝わるだなんて期待もしていない。だから、彼女が私の手を取らないならそれまでだとも思っている。だが、そうなれば彼女は金の亡者たちに群がられて骨の髄までしゃぶられる。
 亡者。嫌いな言葉だ。

「まあ、君に話を持ち掛けてきた大人たちの一つに加えておいて。……って、カタい叔父さんたちに比べたら私は話にもならないと思うけど」

 自嘲気味に言葉を吐く。毎日毎日、昼間に見舞えるような自由業だ。金目当てと思われて警戒されても文句は言えない。
 だというのに、和水ちゃんはメモ帳を差し出してきた。

『一さんは、どうして縁もゆかりもない私に良くしてくれるんですか?』

 あえて言わなかった事で、明かすつもりもなかった事だ。だから、嘘で糊塗した言葉を手渡そうと思って──気が変わった。

「子供が食い物にされるの見るのが、私は本当に嫌いなんだ」

 私の傷に関わる事だ。触れば私にも痛みが走る。だからこそ真に迫った言葉が出るだろうという打算がないでもない。
 和水ちゃんは相変わらず訝しそうで、しかし警戒心は少し緩んだ様子だった。

『考えておきます』

「そうしておいて」

 考えておいてほしい。私のヤサに招くのも、それはそれで彼女に危険を齎しかねない。だが、食い物にされるよりは良い将来を提供できると思う。
 苦しんだ分だけ、せめて幸せに生きて欲しい。その祈りが通じれば良いと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?