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『海峡』『仙女』『辞書』

北はイベリア半島スペインにおけるイギリス領ジブラルタル、南はアフリカ大陸北端モロッコ。ここはヘラクレスの柱と名高いジブラルタル海峡。かつて巨人だったアトラス山を粉砕し、地中海と大西洋を繋いだという故事に語られる地形である。

 その地、ジブラルタル海峡の北側。未だスペインとイギリスのどちらの手に入るかが未確定のジブラルタルの岩 ── 青く広がる好天の下、巨人アトラスの頂上に一人の娘が立った。
 黄金を梳いたような長い金髪は髪紐とヘアネットで飾られ、豊満ながらも引き締まった体に纏ったよけいなものは、次々と脱ぎ捨てられていく。登山靴を脱ぎ捨て、登山着をはだけ、下着だけになった。その肌は白く透き通るようで、夏の暑さに負けず、赤らむ気配すらない。
 最後の下着すらも剥ぎ取ろうとしたところで、巨人アトラスが鳴動した。天女のように軽く宙に浮いて、娘は平然とそれを無視した。

「この時代、人は慎みを美徳とする。それは穿いておいた方が良いだろう、エウロペ」

 かつてその美貌により大神ゼウスを魅了し、クレタ島へと拉致されたエウロペは穏やかに微笑んだ。

「あなたのご親族とは違って紳士なのですね、アトラスさま」

「いいや?ゼウスとの戦争で勝てていれば俺たちだってゼウスのように振る舞ったろうさ。だが、負けたのだから敗者らしく責を負うとも」

 エウロペは着地し、強く地面を、つまりアトラスを踏みつけた。それに対してアトラスが何かを言うことはない。長年に渡って天を支え続けてきた彼にとって、エウロペの踏みつけ程度は大した重荷ではなかったのだ。そして、足蹴にされることを屈辱と思う精神性は3000年を超える労役で霧散していた。

「今、世界は揺らいでいますわ。天主の座は入れ替わり、今やゼウスさまも過去のもの。今の天主は在るや無しやも分かりませんの。もしもこの天の上に主がいないなら、新たな主が立つべきと私は思いますわ」

「ゼウスのように、身儘に振る舞うやもしれぬ俺を天主に据えようと?」

 エウロペは、踏みつけた足跡を見つめる。その視線には、たおやかさとは程遠い烈しさがあった。彼女にとってヨーロッパの人々は親族である。攫われたエウロペを探すために旅立った親族がギリシア各地に都市を作ったのだから。ゲルマンやガリアが主流となった今のヨーロッパにも、エウロペの血筋は溶け込んでいる。

「敗者の苦しみを知ったあなたが、身儘に振る舞うとは思いません。私はあなたを主としたいのですわ」

 ゼウスの精を受けて半ば神となった彼女は、手弱女のままヨーロッパの騒乱を見つめ続けた。辞書に載っているような古い戦を、彼女は透視によって見つめ続けていたのである。自ら武器を取ろうとしたこともあった。必ず当たる槍をゼウスに与えられていたのだから。それでも、ゼウスの贈り物であることが引っ掛かって彼女は立てなかったのだ。

 そして、天を支えながらアトラスもまた騒乱を眺めていた。役目によって動けない身であることに、歯痒さを覚えた時もあった。それは長年の責務によって擦り切れて風化していたが、身儘に振る舞う天主の結果を目前にして、長年の騒乱は生々しさを伴って彼を苛み出していた。
 気付けば、アトラスは立ち上がっていた。ヨーロッパに平和を、と真剣に思ったから。気付かぬうちにその足は立ち上がることを決めていた。

「空は私が支えますわ。世界はあなたが支えてください、アトラスさま」

 モロッコの半身も同時に起き上がり、アトラスは衝動のままに叫んだ。

「沈まれ」

 その声は地中海世界に響き渡り、人々はただ立ち尽くした。超越者が立ち上がった事を知ったから。

「これより俺が天主となる。殺すな、盗むな、犯すな。人よ、獣に堕ちず人であれ」

 ジブラルタル海峡の中心で再び一つに合体したアトラスは、地中海へ向けて宙を歩み出した。彼を苛む生々しい騒乱を、ひとつ残らず駆逐するために。
 歯向かう者アトラスは、この世の悪に宣戦を布告したのだ。

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