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『藪』『お爺さん』『水門』

 水門は治水の要だ。特にこのアスワン・ハイ・ダムの水門は特に。ナイル川は文明の原点でこそあるが、雨季には全てを飲み込む暴れ川となる。下流のカイロなど主要都市を吞む危険は常にあった。その氾濫を止めるために建設されたのがこのアスワン・ハイ・ダムだ。
 その沿革を知ってから考えると、こうして緑化地域の藪払いをする手にも力が入るというものだ。こうして緑化活動に勤しんでいるのは土の保水力を上げるためだ。そのためには太い木を選んで育てるべきであり、細い木や藪は邪魔となる。それを選んで伐採するこの仕事には誇りすら感じていた。
 とはいえ、暑さは如何ともしがたい。ダム湖から来る蒸気のせいで酷く蒸し暑い。次の藪へ、と思って腰を上げると作業負荷がだるさとなって襲い掛かってくる。
 そろそろ昼だし休憩にしようかなと思って振り返ると、いつものお爺さんがジュース缶を持ってこちらへと歩いてくる。その足取りは見た目の年齢からは考えられないほど勇壮で、背筋もピンシャンしていた。

「よう坊主、今日もやっているな。駄賃だ、飲め」
「坊主はやめてくれ。いただくけどよ」

 森を出てダム湖の畔に出る。分かってはいた事だが、ムワッとした多湿の空気が出迎えてくる。これならまだ森の方が涼しいくらいだ。耐えきれなくなってジュースを開け、ぐいと飲む。老人は、そんな俺を楽しげに観察していた。

「坊主、このダムをどう思うね」
「まあ、良いんじゃねえか」

 このダムによって様々な問題が出ていることくらいは知っている。アブ・シンベル神殿を輪切りにして運んだ事も、上流の肥沃な土が入って来なくなったせいでナイル・デルタの土壌が悪化している事も、ビルハイツ住血吸虫が猛威をふるっている事も、もちろん知っている。
 だがそれでも、毎年のように洪水が発生するよりマシだ。毎年のようにナイル川沿岸の家々が浸水したり、悪くすれば家財や家族を失ったりするよりはだいぶマシだ。

「うん、良いんじゃねえかと思ってるよ」
「そうか、良いと思うか」

 何とはなしに吐いたその言葉を、噛み締めるように老人が繰り返す。そういえば彼は一体なんなのだろう。近頃よく話しかけてくる顔見知りではあるが、何者なのかが全く分からない。

「じゃあ、俺は行く」
「ああ、ジュースご馳走さん。どこまで行くんだ、送って行こうか?」
「結構、アブ・シンベルに行くんだ」

 元気な事だと呆れる。優に200kmは離れているというのに。いや、まさか徒歩で行くわけもない。放っておいていいだろうと
 老人はピンシャンとした足取りで、見えもしないアブ・シンベル大神殿の方へと歩き出す。その歩みは早く、老人だとはとても思えない軽やかな足取りだった。
 獅子のように赤い髪を蒸し暑い風に靡かせて、溶けていくように視界から消えていく。まあ、居なくなった爺のことはどうでもいい。今は、今を生きる人たちのために緑地化を進めていかなければならないのだから。鉈を手に取り、木々の中に踏み入った。

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