『岬』『夢』『雨靴』
海沿いでは雨があまり降らない。雨はむしろ山地で降るのだと知ったのは、さていつのことだったろうか。少なくとも、夢で見る当時は知らなかったに違いない。
珍しく雨が降っていた。雨合羽と雨がフォルテシモを奏で、雨靴と水たまりが即興の伴奏を加える。雨の音色は人のそれと違って自由かつ無軌道だ。それが、私自身が手を加えて初めて楽しい音となっていく。自らの手で奏でられる野生の音楽は、音楽室やピアノ教室での演奏とは違った喜びがあった。だから、水たまりを選んで帰った。
私の家は岬の方にあった。対して学校は平地の工業地帯側にあったから、家に帰る道は坂を登る経路で、そこには水たまりがあまりない。だから、あえて回り道を選んだことを覚えている。綺麗に舗装されたアスファルトではなく砂利道を、目抜き通りよりも農道へと進んでいったことを覚えている。道から街灯は消え、強まる雨脚とともに陽はかげり、水たまりを選ぶことさえできなくなったことを覚えている。
途端に心細くなった。懐中電灯を持っていなくて、暗さを和らげる手段がなかったから。暗闇はノイズだ。心地よい旋律を生み出すための雨靴は、ぼんやりと明るい方へ行くだけの雑音製造機になった。水たまりを踏むことに喜びはなくなり、音楽は音の羅列になってしまった。
その中に、いつの間にか音楽が混ざっていることに気付いた。激しい雨の中でも聞こえるほど楽しそうな音だった。音楽の方へ進むと警察の人たちが居て、眩暈がするような音の渦を作っていた。サイレンの音、通行止めされた車たちのクラクション、野次馬のざわめき。その中でも飛び切りの音楽は、騒ぎの中心にある雨傘から発されていた。
練習曲作品10第3番ホ長調。私は参加できなかったけれど、今日行われるコンクールの課題曲だったことを思い出した。哀しみを感じる曲なのにどこか楽しげな旋律が、ひどく強く記憶に刻まれている。
アラームを止め、起床する。今日はいつもより鮮明に夢を見た。記憶処理剤が利かない体質のためにプリチャード学院への進学を強制され、財団に雇用されて今に至っている。このオブジェクトには私みずから配属を志願した。あの日の音楽が音楽のままであるように実験を補佐するのが私の仕事だ。このところ雨が降らなかったから、SCP-548-JPの演奏技術は落ちているだろう。予定通り、第107回実験を開始する。
グラウンドに出て、大勢の職員とともにSCP-548-JPの"演奏"に耳を傾ける。ビゼー、カルメン前奏曲。リスト、パガニーニによる大練習曲第3番 舅ト短調。モーツァルト、ピアノソナタ第11番第3楽章。最初のうちはたどたどしかった旋律が、モーツァルトを弾く頃には私など及ばないほど巧みなものとなった。
「とっても上手ね」
雨に遊んで迷ったあの日と同じ言葉と共に、私は拍手を贈った。