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『州』『病気』『母屋』
峠越えの最中に急な雨が来て、丁度あった民家に軒先でいいから一晩泊めてくれと頼んだら母屋に泊めて貰えた。その上に白米や山菜まで出してもらえたのだ。人通りのない峠に母屋と台所を備えた大規模な邸宅があるのに驚いたのは勿論のことだが、一介の旅人に白米を振る舞えるほど富裕だというのが殊更に驚きだった。
「ご恩返しがしたい。何かできることはありませんか」
すっかり恐縮して尋ねると、下人と思しき紅毛の娘はくすくすと笑った後、真剣な調子で話を切り出してきた。
「では一つお願い事が。峠を越えた先にある州に、薬師が住んでおります。その者に、この手紙と金子を渡して頂けませんか。我が家の主に必要な薬なのです」
「承知しました」
旅装を整えて、握り飯、金子と一緒に手渡された手紙を網袋にしまい込んだ。晴れ空の下、深々と頭を下げる下人の娘に会釈を返して峠道を下りていく。
やがて娘の言うとおりに幅広の川と中州が見えてきた。橋で繋がっている中州は交通の要所らしく、想像していたよりも遥かに栄えた宿場町が視界一杯に広がっていた。
峠を下りて薬師を探す。一人だけでは埒が明かないので、道行く人に尋ねながら進んでいくと、薬箪笥を背に通りを眺める男が居た。間違いない、彼が薬師だ。
「失敬、峠の屋敷から遣いで参りました」
薬師だと見た男に話しかけると、彼は呆気にとられた顔で俺を見返してくる。違和感が募る。下人の娘の言葉には、この中州の薬師をよく使っているという意味合いが隠されていたからだ。それなのに、この薬師の男は峠の屋敷など知らないとでもいうかのような態度だ。
だが、俺には貰った手紙と金子がある。それを見せれば薬師も納得するはずだ。そう思って網袋をまさぐると、手紙は銀杏の葉に、金子は見たこともない褐色の球に変わっていた。
「おいアンタ、そりゃ牛黄じゃないか」
聞いた事もない物の名前を言われて、掌の褐色球を薬師に見せる。
「これのことですか?」
「そうそう、貴重な生薬だ。どこから手に入れた?」
下人の娘の顔が脳裏をよぎる。貴重な生薬だというなら、詳しい事を伝えれば彼女に累が及ぶかもしれない。言い淀んでいると、薬師は鼻を鳴らして店先に戻った。
「なるほどな、峠の屋敷って所で貰って来たわけだ」
返事ができないでいると、薬師は分かっているとばかりにニヤリと笑った。
「アンタ、そりゃ迷い家だ。迷った旅人を泊めた上に土産物を持たせてくれるって屋敷さ」
「迷い家、ですか」
「こっちの地方じゃ有名だぜ。ただ、土産物が牛黄とはね。誰にでも価値が分かるもんじゃないんだぜ。買い取らせてもらって良いかい?」
これがあの娘の手土産だとするなら、売り渡すのは気が引けた。
「いえ。ただ、使い方を教えていただきたい」
そう言うと、薬師は更に笑みを深めた。