『樹海』『悪魔』『染料』
ここローマでは、古来より紫とは最高の権威を示す色である。抽出のために膨大な巻貝を必要とするその色は、貝そのものの希少性、工数から極めて高価。濃い紫に染めるためには大量の色素を必要とすることもあり、帝王紫やクレオパトラの紫とも呼ばれるのがパープルという色なのだ。
だが、今このローマでは、紫の価値が脅かされかねない噂が流れていた。
「北方大樹海には紫の染料がある」
「草の根を絞れば紫の色が出るんだと」
染色業者の誰もが馬鹿馬鹿しいと言った。紫の価値は皇帝の価値で、皇帝の価値は国家の価値だ。それを貶めることなど市民ならば思いもよらない愚行である。
同じくらいに、誰にも気付かれず、誰にも悟らせないまま"紫の草の根"を使って染色することを夢見た。それを使って染めることが出来れば、皇帝の庇護を得られるかもしれない。警察という機能が存在しないローマという帝国にとって、それは自己防衛の側面から見て非常に魅力的なことだった。
だが、ローマ市の中には一人だけ腹の中でも馬鹿馬鹿しいと思った男がいた。その男は田舎者だった。属州出身、元非市民、軍団上がりの現市民。北方大樹海は彼の地元であり、確かに"紫の木の根"があることを知っていた。同じくらい、ローマ市の者にとっては悪魔のような壁が立ちはだかっていることも知っていたのである。
男の土地は、麻で衣服を作る。だから草木染めでも紫色が綺麗に出る。貧乏ゆえの必然だ。
だが、ここローマ市は地中海を席巻する大帝国の首都であり、市民の誰もが衣服に羊毛を使う。羊毛が草木の染料によって鮮やかな色を示すことはない。みじめなマダラ模様になるだけだ。
今、誰もが最初の一人になろうと牽制しあっている。いつか誰かが抜きんでて、草木染めを試すだろう。そいつはきっと、マダラの生地を前に絶望するに違いない。皇帝に献上するのだ、きっと最上の羊毛を使うだろう。それが無惨な姿を晒すのだ。いけすかないローマ市民が絶望する様子を想像するだけで、男は愉悦に口を歪めた。
男はその秘密を抱えたまま死に、知らぬ間に秘密を暴いた誰かは皇帝の不興を買って死んだ。男は、貧乏暮らしながら最後まで楽しそうにしていたという。