『斜陽』『乾物屋』『鉛筆』
ダエーバイト帝国の斜陽期、ある種の乾物が帝国の裏に出回っていた。反乱と戦争で滅びた帝国である以上、斜陽期とは爛熟期に等しい。いずれにせよ、奴隷の苦役と闇の魔術で成立していたその帝国にとって、その乾物はなんということもない異物に過ぎなかった。
月が照らす夜、霧深い日。ダエーワの女、ロヴァタールは寝室にてその乾物に魅入られていた。乾物は彼女らダエーワにとって呪術の触媒となる。特に、より濃い呪いを纏った乾物は特上の触媒であった。未来においてユーラシアと名付けられる大陸、その頂点に座す彼女らにとっては、全ての異物は等しく取るに足らない。そして、呪術によって支配権を確立した彼女らにとっては、呪術の触媒となる異物は皆等しく価値ある存在だったのである。
「素晴らしい乾物ですわ。匂い立つほどに呪いが滞っている。この乾物ならば、きっと新たな呪術の触媒となります」
乾物屋に向け、ロヴァタールは囁くように言った。静かに密やかに語ることをマナーとするダエーバイト帝国の支配層にとって、興奮を明らかにすることは恥である。自分しかいない場であるならばともかく、乾物屋の男を目の前にしたロヴァタールにとって興奮も露わに話すなど、はしたなくてできたものではなかった。
「ありがとうございます、ロヴァタール様」
対面の際にイオンと名乗ったその男に、ロヴァタールは妖艶な魅力を感じていた。ホモ・サピエンスの男とは思えぬ細面、筋肉がついているとは思えぬ繊細さにこそ美を覚えていた。
「イオンさま、あなたは一体どこでこの乾物を手に入れたのでしょう。私も是非、直にこの乾物を手に入れたく思いますわ。このように滴る呪い、一体何をすればここまでの呪いを得ることができるのです?」
「あなたにはきっとできません。それは、崇拝という呪いによるものですから」
ダエーバイトのマナー通り、ひそひそと囁き合う彼らは語調に似合わぬ熱を込めて会話を繋いでいく。
「崇拝という呪い。ええ、ええ。祭祀の長たる母の子として生れ落ちた私ですもの、その重い呪いは存じておりますわ。ですけれど、この呪いはそれとはまた違う。確かに似てはいますが、別種の重みを感じますの」
「救われたいという願い、いつか自由になりたいという願い。この呪いには、救いへの渇望も含まれている。であるが故に重く、この呪いはいつまでも滴るのです」
イオンの言葉に、ロヴァタールは端整な顔をしかめた。救われたいという願い。その言葉は奴隷の言葉であり、ダエーバイト帝国に対する反逆を意図する言葉である。祭祀長の娘として生まれたロヴァタールにとって、看過しがたい言葉であった。
「あなた、自分が一体何を口走っているかをご存知ですの?」
「知っております。あなたがこの乾物を欲しがるであろう事も。私は、彼らが私に託した希望という呪いをあなたに手渡すべく参上したのですから」
その言葉を挑戦状と受け取り、ロヴァタールは寝台から起き上がった。その手にはイオンから奴隷へ、奴隷からロヴァタールへと手渡された呪いの乾物が握られていた。滴る呪いはロヴァタールの呪術で形を為し、イオンを束縛せんと迫る。事ここに至ってなお、イオンを撃滅するのではなく束縛しようとする自分にロヴァタールは気付く。
「これも呪術ですの?」
「あるいは」
弄うように、変わらずマナーを守って囁くイオン。彼は指先で呪印を組んでロヴァタールの放つ呪術を弾いていく。それは、見境なく放たれるが故に奴隷さえも巻き込まんとしていた呪いを的確に逸らすものだった。
少しだけ顔をしかめたイオンは、骨と皮ばかりの肉体とは思えぬ速さで奴隷に駆け寄り、儚さを感じる肉体とは思えぬ力強さで女奴隷を担ぎ上げた
「ロヴァタール様、この場はこれ限りと致しましょう。私たちの術では民草を巻き込みすぎますゆえ」
「あら」
ロヴァタールは滴る呪いを握りしめ、ためらうことなく呪術を放った。
「あなたが手に入るなら、民草など大したことではありませんわ」
その言葉に今度こそイオンは顔をしかめ、迫りくる呪術の群れに目をやる。そして、片手で呪印を組んでロヴァタールの呪いを強引に解呪した。呪いの返しは重い。放った呪いが重ければ重いほど。ロヴァタールはイオンの強引な解呪による反動を受け、その白皙の美貌を爛れさせていた。
ロヴァタールは苦しみ、地面に倒れ伏す。イオンはそれを決着と見て、ロヴァタールの書き物台の紙と鉛筆で一筆をしたためた。
『また、いずれの夜に参ります』
それを書くイオンが赤面していたことに気付いた者は誰一人いない。間近で見ていた奴隷は勿論、イオン本人ですら。
それが、長年に渡るイオンとロヴァタールの繰り広げる追跡劇の始まりであり、彼ら夫婦の馴れ初めであった。