愛し、合う
愛について語るなんて、百年早いわ、と言われそうだが、とても百年は待てないので、控えめに、今語る。
聖書にコリントの信徒への手紙があって、その十三章は愛の章として有名である。私は若い頃、作家三浦綾子が書いていたものから、それを知った。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
まだ愛の何たるかも実感していない頃に、そんな言葉に出会ったものだから、「愛」というものを徒にあまりに崇高なものに祭り上げてしまったのかもしれない。大袈裟に言えば、私はそれに縛られ、男女関係にも反映させてしまい、相手に対する純粋な思いさえも、これは決して「愛」ではないな、と呻吟したものである。
実際、「愛」の本質はもっと自由なものであり、親しみやすく、人の身近にあるものだと、今ならそう思えるのだが、そんなわけで、私と少しでも接点のあった女性には多分、相当不快な思いをさせたことだ自戒している。数は極端に少ないが・・・。
ただ、愛することも、愛されることも、自由であるが、愛し、合うとなると、少し違うような気がする。
見た目には愛し合っているように見える恋人同士であっても、本当に「愛し合っている」のか、と尋ねて、心を覗き込んだら、多少のずれがあるのかもしれない。当然の話だ。人はそれぞれ違う自分を生きているもの。
極論すれば、愛し、合う、と言うのは多分、奇跡である。
近頃本当にそう思う。
だから、今、少しでもその実感を持つ、恋人同士やご夫婦は、その奇跡を喜び、あとで後悔しないように、決して、離さないことだ。
かくいう私も、今でも「愛し、合う」その恍惚たる奇跡の気分を味わいたいと、ひそかに思っている。
書きながら、少し嘔吐を感じてきた。
どうやら、やはり、百年早かったようだ・・・。