我々はどこからきたのか?アフリカンアートが示すもの
以前の投稿で、若い頃、ボストン美術館に所蔵、展示されているゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」という大作を観に行った事を書いた。
今思えば、若い熱情がさせたものではあるが、我ながら驚く。それは自分の存在意義を確かめる放浪でもあったに違いない。そのころの私にはきっと切迫した問題だったのだ。
アートポスターより転載
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへいくのか
ひとりで訪ね歩いて、ようやくたどり着いた美術館の一室。部屋全体に広がったその作品はブルーを基調としたものだった。
結論から言えば、私は暗澹とした気分でそれを見たのだと思う。自分が今この世界に生きているという歓喜に充ちた実感などまるでなかった。その作品を見た後にも、孤独な心の混迷はますます深まるばかりだった。後で、この作品を描いた頃のゴーギャンを調べると、娘の死、自身の健康不安、多額の借金、と失意の底にあったらしい。高名な画家でさえ、その精神生活の衰退にあらがうことはできない。図らずも、その頃の私はそういう皮相的な感慨を持ったのである。
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?
ともあれ、ゴーギャンが呻吟したテーマ「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」はそれ以後の私の興味の対象ともなったのである。
それではもう一度訊く、我々はどこから来たのか?
我々は何者なのか、と自分の存在意義を正す行為は、実は我々はどこから来たのか、そして何処へ行くのかを明らかにすることで、明確になるという事実は理に叶っているかもしれない。
ここに「アフリカ単一起源説」というものがある。
それは、地球上のヒト(現生人類、ホモ・サピエンス・サピエンス)の祖先はアフリカで誕生し、その後世界中に伝播していったとする、自然人類学の学説である。この説はかなりの割合で支持されている、ときいたことがあるが、専門外の私はその詳細を語れない。ただ、少なくとも、アフリカについては、ある種の根源的な懐かしさのようなものを感じるのは、決して、嘘や大袈裟な言い回しではない。
八ヶ岳南麓にアフリカンアートミュージアムがある。
私は何度かそこを訪れたことがある。今年も特別展が行われ、三度訪れた。
館長の伊藤満氏は言う。
アフリカ美術には、大きく分けて、マスク、立像、道具、装身具、武具、楽器、それにテキスタイルがある。その中で、特に独自性がありしかも変化に富んでいるのはマスクである。美術の歴史を見ると、ほとんどの地域において、いつも主流は写実的なリアリズムである。それがアフリカのマスクは異色で奇想天外である。イメージの源は、実際にあるものからヒントを得たにせよ、その独特なデフォルメによる表現は、おそらくは精神生活における願い事や夢のような抽象的なものであると考えられる。
さらには伊藤氏はこうも言う。
侘茶の出現以降に評価された「歪んだ形」を味がある、奥行きがある、わびさびがある、と表現した日本人にはこの精神性の高いアフリカのマスクを理解する下地があるというのである。実に興味ある見解である。
マスクは笑う
我々は何処から来たのか そして何処へ?
マスクは走る 森を目指して
生きることの究極は
愛と孤独 笑わせるな
サムシンエルス
精霊が降りてくるその瞬間に
男の心に 願いのような
祈りのような 小さな声が生まれた
アフリカンアートが示すもの、そして、マスクがつなぐもの、それは一体何だろう?
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